誰にも相談せず、ひとりで家を買った。
空き家バンクで見つけた古い一軒家。家を買うという行為はもっとじっくりと、例えばパートナーや家族と相談を重ねて行うものだと思っていたけれど、私の場合はひとりで、ごく簡単なネットでの問い合わせ、一度の内見、その場で契約、というものだった。社会人になって10年目、少しづつ貯めた貯金で十分に賄える金額だったし、元々躯体のしっかりしたシンプルな構造の家だったので、リノベーションも軽めですみそうだったことも決め手となった。
トラック一台分の荷物が東京から福岡に運ばれてゆく。たったの1、2時間で14年間の私の東京生活がまるっと梱包されてトラックで運ばれていくことが、なんだかおかしくて笑ってしまう。
「こんなに簡単なことだったんだ」
私は飛行機に乗り込んで、本州から九州へ。荷物が届くまでの2日間、博多のホテルに泊まる予定だった。空港から市街地までのアクセスが楽なのも福岡ならでは。タクシーに乗ってホテルへと向かう。私は小さなスーツケースひとつと、梅の枝を数本携えている。
車窓からの博多の街並み。中洲懸橋から望む那珂川。水面に映るオレンジ色の夕景。
「博多は川の街でもあるんだよ」
幼い頃に聞いた父の言葉が不意によみがえる。あの時もまた那珂川の水面に映る色とりどりのネオンを見ていたように思う。
この日は早めにホテルで眠り、翌日は朝食後に初めての大濠公園へと向かった。市街地の程近くにこれほど豊かな緑と、大きな水辺をたたえていることに驚いた。この池はかつての福岡城の外堀であり、ゆっくりと一周して1時間ほど。池を貫くようにして小さな島が点在しており、それらを結ぶ橋を歩いて渡ることができる。中心にある松島は池に浮かぶ小さな森のようだ。公園内の澄んだ小川には大小様々な魚が泳いでいて、時折ランナーたちが通りを駆けていく。
昼食を取ろうと水辺に面したカフェの2階に席を取り、初めて見る「八女茶とニボ鯖のお茶漬け定食」というセットを頼んでみた。ニボ鯖とは煮干しや生のカタクチイワシを食べて育ったサバのことらしく、橙と胡麻たっぷりのタレに漬け込まれ、やはり旨味が強い。まろやかな甘味の八女煎茶を注ぎ、さらさらと頂く。添えられた有明海苔と山ワサビを乗せるとふわりと香りが立ち、最後まで飽きることがない。そんな九州ならではの味を楽しみながら
「東京を離れたんだな」
という実感が湧いてくる。カフェの広い窓からは大きく抜けた空、水辺には鷺のような大きな鳥たちが佇んでいる。
いよいよ明日から、新居での暮らしが始まる。
翌朝、不動産屋の担当さんが、車でホテルの前まで迎えにきてくれていた。
博多からは車で30分ほど。車窓の景色からは段々とビルや建物が消え、徐々に木々や田園の緑へと姿を変えていく。遠くに見えていた山肌は段々とその素顔をあらわにして、あと少し手を伸ばせば触れることができそうだ。
「この辺はもう空気が違いますよね。まもなく、あと5分ほどで着きますよ」後部座席で大きく窓を開け放つ私に、担当さんは言った。自然に囲まれたその郊外の土地は、さほど昔と変わっていないようだった。
敷地に入り車のエンジンを切ると、静寂の中にいくつかの鳥たちの声。
私が買った家、それは私が幼い時に両親と暮らした場所から歩いて10分ほどの場所にある古い家だ。
◉◉◉
私はかつてこの街で生まれた。私が生まれる前、父と母は京都で暮らしていたが、父の会社の都合で福岡へ転勤となったのだった。
私が暮らしたのはおよそ5歳までだったので、とても断片的ではあるが、いくつかの記憶のかけらが今も胸に残っている。毎年、両親が脚立にまたがって梅の実をもいでいたこと。縁側に並べられた梅の実の細やかな産毛。幾度も転んで膝や手を擦りむいた家の裏手の山。海水浴へと連れていってくれた糸島の海の青さ。
母は福岡での暮らしを楽しんでいたようだったが、父には複雑な思いがあったらしい。かつて母はこんなふうに言っていた。もともと学者肌のエンジニアだった父は出世などを望むタイプではなかったが、図らずも評価されて部下を持つ役職となった。人付き合いなど得意な方ではなく、実直で不器用なところのある父は、人間関係の軋轢や社内での派閥争いなどにも巻き込まれ、その結果あまり望まぬ部署への異動を命じられて福岡転勤となったのだと。
本社でいくつかの不祥事や事故が重なって、5年後には家族で京都へと戻ったが、その後は仕事に没頭し、土日もなく会社に出勤。ほとんど家にいなかった父と、私はろくに話した記憶が残っていない。運動会や授業参観、お稽古ごとの発表会などはいつも母がひとりで来てくれていた。
「来週末はあの子の小学校最後のピアノの発表会よ。どうしても来られない?」
「言っただろ、仕事なんだ」
「あの子、本当に頑張ってるのよ。少しでも顔を出せないかしら」
「俺が行こうが行くまいが、全てはあいつの日頃の練習次第だよ」
結局私は中学への進学を機にピアノをやめた。
私たち家族は京都市郊外の住宅街で、よくある建売の一軒家に暮らしていた。何の変哲もない家だったが、庭だけはいつも母の手入れがしっかりと行き届いている。母は福岡から梅の枝を持ち帰っており、京都の家の庭に挿し木をして大切に育てていた。桜よりも少しだけ早く可憐な花を咲かせる梅。私が中学に入る頃には梅の実たちが実るようになり、母は毎年丁寧に梅の実を拭いてはシロップや梅酒などを作っていた。キッチンの戸棚に並ぶいくつもの瓶。それぞれの琥珀色はみな少しづつ濃淡が違っていて、毎年そこに新しい瓶を加えていくことが私にとっても楽しみだった。
「さ、これでよし。半年後に味見してみようね」
今はまだ透明な瓶。ここから1年2年と時間をかけてゆっくりと色を変え、味わいもまろやかに深みを増してゆく。
「早く私も一緒に梅酒を飲みたいな」
「二十歳の誕生日には3人で乾杯しようね、お母さん美味しいの漬けておく」
夕暮れ時、母と私はふたりで氷砂糖をからころと舐めながら瓶にラベルを貼って戸棚に並べた。
◉◉◉
ベッドから体を起こして母は言った。
「福岡での暮らしは本当に良かったのよ。お父さんの仕事もそれほど忙しくなく、何より3人で一緒に過ごせる時間があったから」母が昔の話をするのは珍しかった。
「良かったんだね、福岡。私も少しは覚えているけど」
「朝起きて見る山の景色、3人での朝の散歩。覚えてる? 夜、虫の音を聞きながらお酒を飲んだりして。休日に足を延ばした海の青さ、麦わら帽子で笑っているあなた。私が望んでいた幸せの全てがそこにあったの。もう一度、帰りたかったな」
「また3人で行こうよ」
「そうね、お父さんも喜んでくれるかしら」
私が高校を卒業する年に母は亡くなった。長らく病気がちだった母は、亡くなる数ヶ月前、私にこんな話を聞かせてくれたのだった。
それまで私は母がそれほど福岡での日々を大切に思っていたことを知らなかった。これまで一度もそんな話を聞いたことはなかったから。毎年、慈しむように手入れをして、ひとつひとつ確かめるように縁側の新聞紙に実を並べていた彼女の姿が蘇る。
葬儀の後、家に戻って庭の梅の木に目をやる。その姿は寂しげで、母の帰りを待っているようにも見えた。
母を亡くしたことで、私と父との間には以前にも増して、どこかしら見えない壁のようなものが存在するようになった。元々仕事人間であった父と、膝を突き合わせて話すようなこともなかったし、土日もなく働いていた父とそんな時間をもつ機会もなかった。
私は大学入学を機に京都を離れ、卒業後は東京でIT関連の企業に就職した。大好きな仕事だと胸を張って言えるわけではないが、それでも10年続いている。忙しい時期もあるが、特に大きな不満もなく、それなりに東京での暮らしを楽しんでいた。あまり長続きすることはなかったが何人かの恋人もできた。
ちょうど入社10年目となった今年、こんなふうに社会状況は一変して全社リモートワーク勤務となった。通勤がないことは気持ち的には随分楽だったが、ずっと家に篭っているとなんだか気持ちも塞ぎ込んでしまう。私の部屋は3階建ての低層マンションの3階、12畳のワンルーム。築年も新しいし、駅へも近い。会社へのアクセスも良く気に入っていた。だがリモートワークが始まって以来、やはり寝る場所と仕事する場所がわずか数歩の距離というのはメリハリに欠けるようで、気持ちの切り替えもなかなか難しい。オンラインミーティングの後、同期の友人との雑談は結構気晴らしになっていた。