熱海の街を、環奈が疾走している。温泉街の、急勾配な坂道のアップダウンを繰り返した後、海沿いに出て心地よい海風を切りながらややペースを上げて走るのが、環奈がもう何年も前からずっと続けているランニングメニューだった。すーはっは、すーはっは。徐々にスピードを上げると、呼吸が荒くなる。環奈が走る横を自転車で並走するのは、幼馴染の美弥である。
「もうちょい走る?」と美弥が声をかけ、
「うん、もうちょい」と環奈が答えた。
二人は子供の頃からこうして一緒に熱海の街を走って過ごしてきた。環奈が走って、美弥が自転車で隣を走る。二人は同じ高校で陸上部に所属していて、環奈は中距離の選手、美弥はマネージャーだった。
「大会近いからそろそろ軽めに流したら」
「大丈夫、沢山走ってた方が私は調子上がるから」
「そか」
「うん」
しばらく走った後、海岸沿いの公園までやってきたところで足を止めクールダウンする。二人はランニングの後に、海を眺めながら語り合うのが好きだった。
「大会楽しみだね、緊張する?」と美弥の問いかけに、
「全然、私はあんまり順位とか気にしないから。走るのが楽しいだけ」と環奈は余裕の表情だった。
「でも今回は結構いいとこ狙えそうだと思うよ」
「そうかな、まあ本番になったら何も考えないで走るよ」
「頼もしいねえ。やっぱ環奈は格好いいよ」と美弥は感心する。
「別にー。それより美弥の方がまた大変なんじゃない?」と環奈がにやりと笑う。
「え、なんの話?」
「美弥のファンが沢山いるからさー。また周りが騒がしいでしょ」
「やめてよ、大したことないって私は」
と、笑って美弥は否定するが、環奈は心の内でそれをさらに否定する。美弥は皆のアイドルで、環奈にとってのアイドルでもある。
大会当日、よく晴れた空の下で競技場のトラックを走る環奈の姿があった。
「環奈ー! ファイト〜」
美弥の声援が環奈に届き、ラスト1周のベルが鳴る。スパートをかける。コーナーを曲がる環奈の視界に、手で口を覆いメガホンのようにして声援を送る美弥の姿が映る。地区大会の女子800メートル決勝、環奈は走りながら、大会の主役はやっぱり美弥だ、と思う。目鼻立ちの整った顔に、すらりと伸びた手足、愛嬌のある笑顔、すれ違うと誰もが美弥の姿を見ようと振り返る。まさに競技が行われている最中であっても、男子部員や他校の生徒たちは競技の展開を追うより美弥の姿を見つけることに必死だった。応援する美弥の姿を見て奮起した選手が他校も含めて大勢いた。
美弥の呼びかけに、環奈は親指を立ててグーサインを返した。ラストスパートをかけ、ぐんぐんとスピードを上げる。一人二人、三人と前を走っている選手を抜いた。あと1人抜けば一着だ。ゴール目前、足は鉛のように重くなってくる。この自分の体じゃないみたいになる感覚が、環奈は嫌いじゃなかった。あと数歩、あと一歩で、前の選手に追いつけそうだ。最後の力を振り絞る。
結果は二着だった。はあ、はあ、膝に手をつき、呼吸を整える。「ナイスファイト」と声がして、タオルと水を手に持った美弥が顔を覗き込んできた。笑顔の美弥を見るとほっとして、表情が緩む。
「あともうちょっとだったなあ」と環奈が悔しがると、
「ね、あとちょっと」と、美弥も調子を合わせて悔しそうな表情をした後に、「でもかなりいい走りだった」と環奈を褒めた。
「うん、けっこう手応えあった」
「ほんと、すごいよ環奈は」と、美弥に頭をぽんぽんと叩かれて、環奈は満足してにやっと笑った。
大会が終わった後は、二人の住む熱海に戻ってぶらぶらすることが二人の定番になっていた。まずは熱海駅前にある足湯に浸かって体を癒す。じんわりと足元から温まってきて、疲れが取れる。
「ふあー、気持ちいいー」
「ねー、癒されるわ〜」
「しっかし相変わらず美弥の人気っぷりはすごかったなあ」
「そんなことないよー」
「だって誰も私が走ってるとこ見てなかったもん」
「流石にそれはうそ、私がちゃんと見てたし」
「うん、それは知ってる。走ってるとき見えたし。我が友達ながら、可愛いなと思ったもん」
美弥が人より目立つ存在だと気づいたのは、小学校の高学年になってからだった。一緒に街を歩いていると、事あるごとに声をかけられ「美人さんだねえ」と二人揃って褒められた。しかし声をかけられるのは美弥と一緒にいるときだけだったので、周囲の目は美弥に向けられているのだと得心した。嫉妬とかショックはなかった。仲良しの美弥が人の目を惹く存在であることが、環奈には嬉しかった。
美弥を見つめる。無言で見つめてくる環奈に、ん?と首を傾げた美弥は、小動物のように愛らしい表情をしている。そのとぼけた顔が面白く、堪えきれずに環奈が笑うと、美弥もあっはっは、と声を上げて笑った。思えば美弥のこの笑顔が、塞ぎ込んでいた環奈の心の扉を開いてくれた。環奈は美弥に対して、友達でもない、家族や恋人に抱くような思いともまた違う、特別な感情を抱いていた。
二人が初めて出会ったときのこと。初めに声をかけたのは美弥だった。走る環奈を見つけた美弥が、「ねえ君、とっても走るのが速いね」と話しかけた。
まだ二人が小学校に上がる前、熱海のサンビーチの砂浜を幼い頃の環奈が裸足で駆けている。地面に着いた足はすぐに砂を押し退けて沈み、窪みをつけて返ってくる。ときおり足が砂に取られてバランスが崩れるので、環奈は神経を足に集中して走っていた。だから「ねえ君、とっても走るのが速いね」と、女の子に声をかけられたのに気づかない。すれ違いざまに投げかけられた声は、確かに耳に触れていたけれど、まさか自分へ向けたものとは思わなかった。だから「ねえちょっと待って!」と大声で呼び止められた時には、「え?」と驚いて、そこでようやく立ち止まった。
足を止めて振り返った環奈に、美弥が駆け足で近づいてきた。目の前まで来ると膝に両方の手をついて体は前傾し、ぜえぜえと息を切らしながら、顔だけ持ち上げて上目遣いで環奈を見つめる。目が合って、環奈はドキッとした。動物園で見たリスみたいにまんまるで大きくて可愛げのある目だった。
「私は美弥、あなたの名前は?」
「なまえ?」
「うん、なまえ」
「環奈」
「カンナ?」
「うん」
「カンナね、よろしく」
呆然と立ち尽くしていると、右手を取られた。それで握手をした格好になる。
「私ずっと気になってたの」
「え?」
「どうしてカンナはいつも走っているの?」
環奈が六歳の頃、母親が病気で亡くなった。母がどうして帰って来ないのか、娘に聞かれた父は海を眺めながら、「お母さんは海の向こうに行ったのかもしれない」と言った。
「お母さん、もう帰って来れないの?」とさらに聞かれて、
「どうだろう、帰って来れないのかなあ」
と、はぐらかす父の言葉に込められた思いは、娘を傷つけたくない一心だけではなかった。自分の妻が二度と戻ってこないということは、頭の中で現実味を帯びなかった。一方で、知らない素振りを見せながらも娘の環奈はよく分かっていた。その頃にはもう十分に物心がついていたのだ。母は海の見える病院で死んだ。それが変えようのない事実だった。葬式になって、環奈はわんわん泣いた。葬式は何かを決定させてしまった気がした。わんわん泣く環奈を見て、親戚たちは心を痛めた。母の生前の意向に沿って、父は遺骨を海に撒いた。
母と過ごした時間の中にある熱海の街並みを、環奈はよく覚えていた。走ることを覚えた幼い環奈が、トコトコと駆け足で坂を下っていくのを母が追いかけてくる。環奈はどこでも走り始めるので目が離せなくて大変だった。「環奈は本当にかけっこ大好きだねえ」と、母は困ったように眉間に皺を寄せて苦笑した。環奈は褒められたと思って、母と出かけるたびにあちこちを走り回るようになった。だから母が病院に通い始めてから、そして入院した後にも、病院の近くを走っては母親を喜ばせようとして報告し続けた。それが習慣となって、母がいなくなっても環奈は走ることをやめなかった。だから美弥から、
「カンナはなんでいつも走っているの?」
と、聞かれればそれは母がいない寂しさを埋めるためだった。しかし美弥に聞かれた時にはまだ、母親がいなくなったこと、それによって起こった気持ちの揺れ動きを人に説明できるほど胸の内を整理できていなかった。だから環奈は質問されたことよりも、どうして自分がいつも走っていることを目の前の子が知っているのかが単純に不思議で、結果的に質問に質問を返す形になってしまう。
「なんで知ってるの?」
「なんでってなにが?」
「走ってること」
「走ってること?」
「なんで知ってるの?」
美弥が環奈のことを知っていたのは同じマンションに住んでいるからだった。環奈の母が選んだベランダから海が見えるマンションだ。そこへ美弥の家族が父親の仕事の都合で三月に引っ越してきた。小学校に上がる前の引っ越しで幸いだったと美弥の両親は言ったが、幼稚園でできた友達が一人もいないまま小学校に上がるのは心細かった。子供同士だからといって簡単に仲良くなれるわけじゃない。子供たちには子供たちなりに社会、流儀があるわけで、大人が思っているほど単純じゃないのだ。美弥は概ねこんなような気持ちだった。
不安を抱える美弥が、新しい住居の中から窓の外を眺めると、日光を反射させて眩しく光る海が、デーンと広がっているのが見えた。あ、海だ。幼い美弥は一人で呟いた。それはつまり環奈の母が気に入った海を見ていた。淡い青色の海。南国リゾート地の海のような、青ければ青いほど綺麗な海だと言う人もいるが、私はこの海の色が大好きなのだと、よく環奈の母は語った。後に、少し大きくなった環奈が美弥にこの話をしたとき、うんうん頷きながら「私もそう思うな」と美弥が言ってくれて、環奈は母との思い出が肯定されたようで嬉しく思った。それはさておき幼い美弥が窓をあけると、海風が部屋の中を吹き抜ける。ベランダに出ると、潮の香りがする。すーっと大きく息を吸うといい気分になる、と環奈に教えたのは母だった。環奈は見よう見まねで息を大きく吸った。そして「いい気分」と言ってみたら楽しくて、満面の笑みで母を見た。そんないい気分になる海の匂いだが、美弥の場合は引っ越す前に住んでいた家との違いをより肌で感じるのを手伝うものだった。なんだか遠い所に来てしまった、と美弥は思った。ゆいちゃんあきちゃんしゅうたたちは元気かなあと思うだけだった。そのベランダから、外を走る環奈を見つけた。自分と同い年くらいの少女が、マンションのエントランスから出て坂を下り、海沿いへ向かって走っていった。美弥はその様子をじっと眺めていた。目を奪われていたと言ってもよかった。自分と同じ年頃の子供たちと比べて、走り方が綺麗で力強くて、なんというか様になっているように見えた。それから、美弥はときおり環奈の走っている姿を、近所で見かけるようになる。走り方で、すぐに環奈だと気づくのだった。まだこの街に一人も友達がいなかった美弥は、今度見かけたら声をかけようと思った。今度見かけたら、が、また今度、また今度と何回も過ぎていった。もう間もなく小学校が始まるというときに、父とサンビーチに遊びに来ていた環奈を見かけて、ようやく声をかけることができたのだった。
美弥に初めて話しかけられた日、環奈は美弥に友達になろうと言われた。環奈の父親と、美弥の両親はいつの間にか挨拶を交わしていた。同じマンションに住んでいることが判明し、家族と家族は揃って自分たちの家に向かって歩いて帰ることにした。環奈は並んで歩いている父に、「お父さん、環奈ね、友達になろうって言われた」と報告した。それで環奈は何て答えたの、と父に聞かれて、環奈は自分が何て答えたか分からなかった。何も言えてないかもしれなかった。それじゃあダメだな、と父は笑って、マンションの玄関口まで戻ってきた時に美弥の家族に声をかけた。父に両肩を支えられ前に立ち、言えるか? と小声で促され、環奈は小さな声を振り絞る。「美弥ちゃん、友達になってくれてありがとう」
言った後すぐ、恥ずかしくて下を向く環奈だったが、「環奈ちゃん、これからよろしくね」とにっこり笑った美弥の顔は確かに見えていた。
美弥は美弥で、ちゃんと環奈と友達になれたのが嬉しかった。環奈や環奈の父からは社交的な子供に見えたかもしれないが、本人としては勇気を出した行動だった。新しい街で友達ができるかどうか、美弥も心配だったのだ。
その後二人はすっかり仲良くなり、小学校に上がってからも放課後や、休みの日によく遊ぶようになった。環奈が父子家庭だと知った美弥の両親は、よく面倒を見てくれた。環奈の父が帰りの遅い日には、一緒に夕ご飯を食べさせてもらうこともあった。よく夕飯を食べるまでの時間に、美弥を連れていつものルートを一緒に走ったりして過ごした。環奈が走るのが速すぎて、美弥が自転車に乗れるようになってからは自転車に乗って伴走するようにした。熱海の街を二人で並んで走り、沢山のことを話しながら二人は大きくなっていった。
足湯で休んだ後、小腹がすいた二人はデザートか何かを食べようと商店街を歩いていた。商店街には美味しそうな食べ物が多くてついつい帰路で食べすぎてしまう。よく食べ、よく走る。それが環奈の高校生活だ。途中、カップ入りのアイスを買ってから、海沿いにある親水公園に移動をした。テラスにある半円の木製ベンチに座って、溶けてしまう前に食べる。
「うんまっ」思わず声が出る環奈。
「ほんと美味しそうに食べるね」と感心され、「いやね、走った後のアイスは最高なのよ」と言って、環奈が目を細める。「うまい〜」
「走ってなくても美味しいよ?」
「ううん、走ったら五割増しで美味しくなる」
「えーずる。じゃあ私も走ろうかな」と言って、美弥がアイスを置いて、急に海の方に向かって走り出す。それに環奈も続いて手に持ったアイスを一旦置いて追いかけていく。環奈がぐんぐんとスピードを上げるとすぐに美弥に追いついて、そのまま抜き去って真顔で突っ走る。追い抜かされた美弥が「はっや」と言って、ゲラゲラ笑う。まず美弥が走り出して、それを環奈が一気に追い抜くというこの一連の流れは、二人が一緒に遊んでいる中で生まれたお決まりのくだりだった。あっという間に遠く離れた位置に環奈がいる。小さくなった環奈を見て、美弥が腹を抱えて大笑いした。「もーアイス溶けちゃうって」「食べよ食べよ」
アイスを食べ終えてから、しばらく話し込んでいるうちに日が落ちてきた。サンビーチは日没を迎えるとライトアップされ、辺りは幻想的な雰囲気に包まれる。
「なんかいい雰囲気だよね」
「ね、ちょっと二人で写真撮っとかない?」
環奈の提案で、二人で写真を撮ることにした。ライトアップされたムーンテラス、スカイデッキの上を歩き、環奈の携帯をインカメラにしてあちこちで撮る。「あとでインスタに上げてもいい?」
「うん」
美弥と一緒に映った写真をSNSに上げると、普段はあまり話さない友達やクラスの男子たちからもいいねなどの反応がくる。それに環奈は満足していた。美弥と仲が良いことを周りに知らしめることで、自分が特別な存在になった気がした。
「ねえ、あそこは?」と美弥が声をかけてきて、指差す方を見ると、ライトアップされた貫一お宮之像があった。
「あれ?」
「うん、あそこで写真撮ってみない?」
明治時代に大ヒットした小説「金色夜叉」の登場人物、貫一とお宮の名シーンを再現した像の前で、二人は写真を撮った。貫一とお宮。環奈と美弥。二人の名前の組み合わせが似ているねと話す。「なんでお宮は、蹴られちゃったんだろう」環奈は、一度どこかで理由を聞いた記憶があるが覚えてなかった。美弥が銅像の足元にある解説板を見つけて、「なんか、切ない別れを再現って書かれてる」と環奈に教える。
「切ない別れかー」
美弥がもう少し携帯で調べると、貫一が許嫁であったお宮に裏切られたことを知る。お宮は貫一ではなく、「お金持ちの人と結婚したって」と美弥が携帯を見ながら言って、「えー」と環奈が不平を口に出す。
「それって全然切ない別れじゃないじゃん、お宮ひどい」
「お宮は貫一のこと好きじゃなかったのかなあ」
「きっと貫一よりお金が好きだったんでしょ」と環奈はあまり深く考えずに言ったが、「うーん、なんか理由があったのかも」と美弥は考え込んでから、
「環奈だったらどうする?」と聞く。
「え?」
「もし環奈が貫一だったら、怒る?」と聞かれて、「え、そっち?」と思いつつも一応考えて、環奈は裏切られたことが憎くて蹴りたくなるほど好きな人という存在がどういうものなのか、
「正直想像つかないかも」と思った。
だけどその、誰かがいなくなったら生きていけないという感覚なら身に覚えがあった。お母さんがいなくなったときの、どうにもできない感情のこと。今だったらお父さん、それから美弥。環奈は、もしまた大切な人がいなくなってしまったら、自分がどうなってしまうだろうと不安になった。「なんかさ……」と気づけば環奈は話し始めていた。
「美弥と私はずっと一緒に仲良くいようね」
「え? どうしたの急に」
「なんか貫一とお宮の気持ちになったら寂しくなっちゃった。だって元々は仲良しだったんでしょ」
「うん、たしかに。なんか寂しいね」
「ね、なんか寂しい」
なんだか貫一とお宮の関係を思って暗くなる二人だったが、「まあ写真撮ろうよ」と気を取り直した。
美弥が貫一の、環奈がお宮のポーズを真似して写真を撮った。動画も撮った。美弥が鬼の形相で環奈を蹴るアクションをする。環奈が「やめてー」と叫んだ。
「おーいい感じいい感じ!」撮った写真を確認した環奈は満足して、SNSにアップする。