「どっか行くの? ていうかすごい量だな」
風呂上がりの牛乳を片手にお父さんが言うのに、私はきまり悪く振り返った。視線の先にあるのは明日の持ちもの候補たちだ。遠足の前日さながらに膨らんだそれらは、私の迷走をそのまま表している。
篠田さんが指定したのは、週末の土曜日だった。お母さんの一周忌の前日だからどうしようか迷ったけれど、家に籠もっているのもそれはそれでよくない気がして、結局は行くことにきめた。遊びの約束をしたわけじゃない。かといって妙にカッチリしすぎるのも構えすぎに思え、私は持ちものをきめあぐねていた。
だんだん考えるのもめんどうになって広げたもののほとんどをトートバッグに詰めていると、お父さんがひとつを取り上げた。
「これも持ってくの?」
このまえ借りてきたアイヌ料理の本だった。ついさっき夕飯でも世話になったばかりだ。
「借りてきたの?」
「うん」
「千雪が自分で?」
「うん」
普段、本なんて借りることがないからか、お父さんは意外そうな、妙に感心したような顔で表紙と私を交互に見たあと、くすりと笑った。私はさらに突っこまれたらどうしようかと落ち着かなくて、お父さんの手から手早く本を取り戻した。
「親子」
「ん? なに?」
「いや。ていうか、こんな重いもん持ってくなら、トートじゃなくてリュックでしょ。リュックにしな、リュックに」
「えー。でも、リュックじゃカッチリすぎない?」
「なに、かっちりって」
「……や、なんでもない」
言ってしまってから突然恥ずかしくなって、ぎゅっと唇を引き結んだ。お父さんは気にしたふうもなく、
「気をつけてな」
と笑って私の頭をぽんと撫でた。
「えー、それではご紹介します。こちら、おばあちゃん。こちら、茅さんです」
「はじめまして、茅千雪です……」
「はい、こんにちは。ばあちゃんの八重子です」
にっこりと微笑んだ八重子さんは、篠田さんの紹介にきっちりつき合って、ぺこりと頭を下げた。
「社会見学……?」
声を落として横目で見る。けれど相手は悪びれることもなく、けろりとしていた。
「実地が一番でしょ。ウチのアイヌのルーツはママの家系だから。ちなみに泊まりね」
「え!」
屈託なく笑う語尾にハートマークが見えて、私は内心で頭を抱えた。
社会見学なんていうから、まさかおばあちゃんの家なんてプライベート感満載のところに連れてこられるとは夢にも思わなかった。泊まりなんて話していないからとお父さんに相談すると、『法事は午後からだから、楽しんでおいで』なんて、スタンプつきで快諾されてしまって、さらに困惑してしまう。
篠田さんが布団を取りこみに行ってしまい、居間にひとり取り残された。そわそわと視線をさまよわせていると八重子さんと目が合う。にこりと笑顔を向けられて、なにか話題をと考えているうち、ふと、夢のことを思い出した。
「あの。こういう……こういうちゃんとしたお料理を動物に食べさせたりとかって、八重子さんは聞いたことありますか?」
リュックにしまってあったアイヌ料理の本を取り出して、八重子さんに見せる。八重子さんは私の手元の本に視線を落としながら、わずかに首を傾げた。
「動物?」
「はい。その、熊とか……」
目線をうろうろさせながら尋ねると、ああ、と八重子さんがうなずいた。
「昔だったら、子熊をそうやって育てることがあったのは聞いたことがあるねえ。食事の一番いいところを誰よりも先にあげたり、赤ちゃんのときは母乳をあげたりもしたとかって」
そう言って、八重子さんがいくつかの本を見せてくれた。イオマンテという儀式のことが書かれたページには確かに八重子さんが言ったような記述があり、いつも夢の中で私がいる檻のような写真も載っていた。
「なんか、早くも打ち解けてる?」
気がつくと、いつのまにか戻ってきていたらしい篠田さんがうしろから覗きこんでいた。
「そうだねえ。あゆちゃんもゆきちゃんもきてくれて、今日は久しぶりに楽しいわ」
ふんわりと微笑んだ八重子さんの笑顔に、ふいにお母さんがよぎる。胸はぎゅっと縮こまったけれど、あたたかくて、つらさはこみ上げなかった。
「あの、今日はありがとうございます。お世話になります」
私は改めて姿勢を正して向き直り、ぺこりと深く頭を下げた。
大きなリュックも虚しく泊まれるような準備をしてきていなかった私は、必要なものを買いに外へ出た。近くのコンビニまでは歩いて十五分ほどあり、お菓子を買うからと言って篠田さんもついてきてくれた。
とりあえずのお泊まりセットを揃え、細い歩道を縦に並んで歩いた。
「さっきさ、ちょっとびっくりしちゃった。茅さん、なんかコアなこと知ってるんだもん」
先を歩く篠田さんが、前を見たままで言う。一瞬なんのことだかわからず、少し考えて、さっき八重子さんと話していたことだと思い当たる。
「いや、あれはほんと、全然、そういうんじゃないんだよね……」
「そうなの? でも、あゆ葉よりはマシそう。あゆ葉、本当になにも知らないから」
声のトーンは明るさを保ったままなのに、篠田さんの言葉には、どこかひっそりとした雰囲気があった。背を向けているから、表情は読みとれない。
「八重子さんは?」
「おばあちゃんとは仲いいけど、そのへんはお互いノータッチだったっていうか。あえてってわけじゃないけど、自然と。あゆ葉も気にしてこなかったし」
私は声に出さず小さく驚いた。社会見学だなんてあまりにも自然に連れてくるから、てっきり篠田さんにとってはいつものことなのかと思っていた。
「ママもそういうのは全然な人でさ。まあ、別にそれはそれでいいんだ。ふつうにアリでしょ? ……だけど、あゆ葉はそうでもなくって。自分のことだし、だんだんね。……でも、だからって」
ふいに言葉が途切れて、すぐにゆっくりと白く吐き出される。
「あゆ葉はなにも知らないの」
足下でべちゃべちゃになった雪を蹴るようにして、篠田さんの靴先が歩道の上を掠める。うつむいた髪が緩やかな風にさらわれて、夕焼けのオレンジに溶けていく。わずかに身体を傾けた横顔は、微笑んでいたけれど、なんだか心もとなく見えた。
「こんな中身からっぽなのに、どうなのよ? って、思ったりもするわけ。ルーツがあるだけで、さ」
そのまま、とん、とん、とん、とジャンプするみたいに進んで、篠田さんはくるりと振り返った。
「じつは、自分から名乗ったの、あの日がはじめてなんだ」
おどけるみたいに明るく笑った篠田さんは、もういつもの篠田さんだった。
私は、なにか言いたかったけれどなにが言いたいのかわからなくて、引っ張られるように篠田さんの背に歩み寄っていた。けれど追いつく手前でなぜか篠田さんがきゃあきゃあと逃げ出して、そんな気もなかったのに、意地になってまたその背を追いかけた。そうして小さな子どもみたいに追えば逃げるを繰り返し、結局、それは家に着くまで続いたのだった。
無駄に疲労困憊になって居間に上がると、篠田さんは「限界」と一言だけ残してダウンした。そのまま寝息を立てはじめてしまったので、とりあえず毛布を引っ張ってきて肩からかけた。
八重子さんは台所に立っていた。コンロには大ぶりの鍋がかかっている。なにげなく目をやると、視線に気がついた八重子さんが振り返って柔らかく微笑んだ。
「これはオハウっていうのよ。私が子どものころは一緒に住んでたおばあちゃんが毎日つくっていたから、いっつも食卓にはオハウがあってね」
「それで八重子さんも?」
尋ねると、ふふっと八重子さんは笑った。
「それが、まったくつくらなかったのよ。でも不思議ね。この歳になると食べたくなるのねえ。毎日食べるのが、すっかりくせになっちゃった」
くすぐったそうに目を細める八重子さんが、鍋の蓋を持ち上げた。ふわんと柔らかい湯気が立ち上り、優しいにおいが鼻先をくすぐる。
鍋の中には、分厚い半月切りの大根やにんじん、半分に切られただけの大きなじゃがいもがごろごろと入っていた。琥珀を溶かしたような薄い黄金色のスープはきれいに透きとおっていて、大振りに切られた根菜類のあいだから覗く鮭は鮮やかさを失っていない。どの具材も本来の色を保ったまま、けれど、芯までスープを吸いこんでいるのがわかるくらい、淡く優しく色づいている。それは、夢でもいつも登場するスープだった。
「食べてみる?」
にこりと尋ねられ、「はい」とうなずく。
変な運動をしたせいか、体調は悪くなかった。微妙な時間だったけど、三食のうちの一食に数えても許されるだろう。
器にたっぷりと盛られたオハウはとても豪勢で、顔を近づけてみても身体が拒絶する感覚は起きなかった。念のためと用意しておいた本は開くことなく、すっかり深い寝息を立てている篠田さんのかたわらで、私は山に盛られたオハウをぺろりと平らげた。
ほどなく篠田さんが目覚め、私が食べたのと同じに山と盛られたオハウがテーブルに並んだ。篠田さんは好き嫌いが多いらしく、器の中のごろごろ野菜に一瞬怯んだものの、最後にはスープまできれいに飲み干した。特になにも言わなかったけど、八重子さんはどこか嬉しそうに見えた。
「あゆちゃん、ゆきちゃん」
食事もあと片づけも終わったころ、居間でだらけていた私たちを八重子さんが手招きした。
「せっかく、ふたりがきてくれたから」と言う八重子さんの手には、本が一冊握られている。
「本当は山菜採りもできたらいいんだけど、それはもう少し先でしょ? だから、ちょっとね」
優しく微笑まれそばに腰を下ろすと、八重子さんは優しさをたたえたまま、開いた本へすっと目を落とした。
「……私には父がいて母がいて、一緒に暮らしていたひとりの少女でありました」
そうしてそのまま、空気中に溶けた言葉を掬いとって集めていくように、ゆっくりゆっくりと声を乗せた。
——いつものように少女が畑仕事をしていたある日のこと。
下流の村の村長の妻が重い病気で亡くなったという噂を聞き、少女はお悔やみに行こうとしました。けれど貧しい少女には供えるものも着ていく服もありません。諦めて畑仕事をしていると萩の葉に宿る神がささやき、家のプクサ——ギョウジャニンニクを持ってすぐに村長の家へ行けと言いました。そうして村長の家へ着くと、今度は鍋の神が少女に告げるのです。
村長の妻はプクサを根絶やしに取りつくし、プクサの神の怒りをかったのだ。けれど次に言うことをすれば、なんとか命は助かるだろう——。
「私は鍋の神が聞かせてくれた南斜面へと走り、持ってきたプクサをあたり一面に撒きながら、『プクサの神の魂を返しますので、彼女の命を助けてください』と大声で言いました……」
八重子さんはゆったりとした余韻を残して口を閉ざすと、静かに本を閉じた。途端、ぱちんと針で割ったように広がっていた物語が閉じる。
「それから……?」
おずおずと先を促すように尋ねれば、八重子さんは待っていましたとばかりににんまりと口の端を上げた。
「続きはね、また今度」
「えっ」
声を上げたのは、ふたり同時だった。私たちの反応に、八重子さんはなおも楽しそうに笑う。
「だからふたりとも、またきてちょうだい。五月には山菜採りもできるようになるし」
ね? と念押しされて、口が半開きになったまま顔を見合わせる。そうしてふっと吹き出すと、どちらからともなくうなずいた。