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淡路は信号が少なくて、どの車も相当な速度で走っている。横目で海を感じながら僕は車を走らせる。高速に乗って、明石海峡大橋を渡り島を出たら、そのまま東に向かい今日は名古屋まで行って、そこで一泊する予定だった。でも高速に乗る前にやることがあった。
飲み切れないと思われたコロナビールの山は、隣に住む女の協力もあって無事飲み干すことができた。そのことを昨晩友人に LINEで伝えると、詳しく聞かせろよ、と要望され昨晩のことを事細かに説明した。
「わけわからんな」
たしかにそうだった。それも予定通り、今朝目を覚ましてしばらくして酒が抜けていることを確認して、別荘を後にした今はなおさらだった。隣の家に行って挨拶してから帰ろうかとも思ったが、それも妙な気がしてやめておいた。別荘地を離れる際、視界に映る隣家にあの母子がいるのだと思うと空間がゆがむような感じがあったが、視界から消えてしまうと、そんな違和感も急速に遠ざかっていった。きっと、この島から出てしまったら、もっとずっと遠く感じるだろう。いやあるいは、いつまでも頭のどこかに残っていて、日を追うごとに重力を増すような昨晩のことを思い出すようになるだろうか? 幼い頃の記憶に紛れる大人の事情に、ある日突然気づくような、そんな種の特別な思い出のように。
その萌芽なのかどうか定かではないけれど、遠ざかっていった違和感を僕は自ら手繰り寄せている自分に気づいた。母親の言う「わかりやすい話」。それを統合すると、おおよそこういうことになった。
彼女は若かりし頃、東京で、ある弁護士事務所に勤めていて、その事務所のオーナー弁護士の愛人だった。娘はその男との間の子供で、十分な月々の生活費を支給されている。別荘地で暮らしているのはそこに押し込められているのではなく、子育てのための静かな環境を求めてのことだった。それを聞いていた時、僕にはまさに、蝶々夫人の影が重なっていた。来ぬ人を待つうちに、精神がたまに錯乱してしまったのか?
「あなたたちはいつもわかりやすい説明を求める」コロナを飲みながら女が言う。「そんなくだらない男を待っているわけないじゃない?」
彼女とオーナー弁護士との関係に亀裂が入ったのは、その弁護士が重要な証拠書類を当時の彼女の家に忘れていったことが原因だった。弁護士は証拠隠滅の嫌疑をかけられた。彼女は書類の入ったバインダーから書類を一枚抜き取って事務所に戻した。そしてその存在を隠し通し、全部で10枚あるはずの書類が一枚足りないことを強調するために、皿屋敷伝説の女のように、バインダーに挟んであった書類を一枚、二枚と数えていった。
「復讐ですか?」
まともな反応がないことを知りつつも、僕はまた聞いてしまった。ところが、女は昨日唯一の返答をした。たぶん、返答だったのだと思う。時を経るごとに自信が持てなくなってきている。あれはもっと別の何かだったかもしれない。
「やっぱり、あなたたちはなんにでもわかりやすい説明を求める。生きることや勝つことより重要なものごとがあることがあなたたちにはわからない。うらめしい、と言っても別にうらめしいわけでもない。海を見ていても何かを待っているわけでもない。いえ、何かを待っていたのだとしても、それはあなたたちが思っているようなわかりやすいものではない」
----「裕君は何もわかっていない。全然何もわかっていない」
酒に酔った元妻との最後の会話を僕は思い出す。そう言えばあの時、飲んでいたのはなんだったろう?多分コロナビールではなかったはずだ。久しぶりに名前で呼ばれた、と頭の一部で考えながらも僕は、冷静に彼女がなぜ怒っているのかを考えようとしていた。確か僕たちは不妊治療の結果の話をしていたはずで、そこで言う「待つ」というのはその結果についてのことのはずだ。もっと直接的にいえば、子供ができるのを待つかどうかという話だったはずだ。でもそうでないことも僕にはわかっていた。けれど、ではなんなのか? 彼女が何を待っていたのかが僕には今でもわからない。
「きっと君たちがいなければ原子力爆弾なんて作られなかったし、それが落とされることもなかった。君たちがいなければ色んな愚行はこの世にあらわれすらしなかった」
うらめしや
アベノマスクをつけた人形の声が脳裏によぎる。スポットライトに照らされて浮かび上がる女。男の都合で罪を負わされて井戸に投げ込まれ、毎夜毎夜、皿を数えて一枚足りないと嘆き悲しむが、そもそも彼女に落ち度はない。そのことが、君たちの後ろめたさを刺激する。きっと君たちは何かを犠牲にしなければ前には進めないのに、その果てにあるものをしかとはとらえられなくて、後ろめたさだけが募っていく。だから、女に罪を背負わせて井戸に捨てるなんて、こんな不気味な物語が忘れられず、口づてに広がっていった。
カーブを曲がると、巨大な観音像が見えてきた。僕はしばらくさらに進んでから、ハザードランプを点灯させてアスファルトから畑へと下る小さな坂に車をよけ、サイドブレーキをしっかり踏んで、エンジンを切った。そして平和観音像に近づいた。Xperiaを取り出してLINEを立ち上げ、友人とビデオ通話を繋げる。
「お、もう帰り?」
友人は仕事に集中するために借りている、渋谷駅前のコワーキングスペースにいるようだった。WeWorkのロゴのついたマグカップでコーヒーを飲んでいる。
友人と昨晩、島から出る前に動画通話で大観音像を見せる約束をした。観音像にカメラを向けながら近づいていき、言われるままにアングルを変えた。
「やっぱり顔の造り雑やなー。ほんとこれだけでかい物をたてないと、気が済まないなんて、どんだけ悪いことしたんだろうな。まあ、バブル前夜の頃だから、いろいろあったんだろうが」
雑な造りの顔が海を見晴るかしている。菩薩観音は世に苦しむ音あれば直ちに救うため、いつも耳を澄ませているという。けれどその像は近々取り壊されるそうだ。
「老朽化のため、近隣住民に恐怖を与えるなんて本末転倒」
「いや、ニューモデルが必要なんだよ。人々の苦しみの声は複雑になり過ぎて、旧モデルでは対応できないから」
「なんだよそれ」
東京に戻った僕は入社予定だった会社には世話になるのはよすことにした。心許ないような、気楽なような状態でしばし過ごした。幾人かに声をかけてもらい、収入アップどころか元の会社よりも収入が減るが、なんというかそれが正しい流れである気がした。虎ノ門のオフィスで働きだし、エアポケットのようなコロナビールの日々のことを思い出すこともなくなっていった。
でもやはり、そこでの分類不能な出来事は、記憶の海に沈んで紛れてしまうことなく、ふとした瞬間に浮き上がってきた。例えば誰かと食事をしていて、相手が席を立ち、帰り支度をしたその口元にマスクがあることに気づいた時なんかに。
アベノマスクをつけた人形浄瑠璃の女形。その女が糾弾するのは男性全般であるとか、彼女を害した相手に向けられているものではない。それも含まれているが、わかりやすい説明では掬い取れない何かだ。
このところ、播州皿屋敷青山館の段
あの時、スポットライトを浴びた少女が人形を操りながら大声を出した。部屋から出ないその少女によって、何百年も続く演目が繰り広げられる。美しい母親がそれを観ている。
うらめしや、うらめしや
その言葉は君たちに向けて、永遠に夜をさまよう。
(了)
<本作品のモチーフにしたお話・文化>
「播州皿屋敷」
<取材協力(敬称略)>
淡路人形座 支配人 坂東千秋
淡路市役所
*この物語はフィクションです。
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