目が覚めると部屋のなかが暗かった。そのまま眠ってしまっていたみたいだ。
水を飲みにキッチンにいき、電気も点けずにベッドに腰かけた。
藤崎さんのことをあまり考えたくなかったが、どうしても考えてしまう。
一時は内面がきれいな人だとさえ思ったのに、彼のことがわからない。私はぐったりしていた。
藤崎さんへの混乱の他にも、ぼんやりとした罪悪感が全身を巡っていた。
今日、公園で藤崎さんから話を聞き出していたときに、ふとこう思ったのだ。
私は、「おばあさん」という存在を利用しているのではないか?
きれいもきたないもないとか、おばあさんにだったら心を許すだろう、なんて。
おばあさんだって恋愛したりするし、きれいとかきたないとか気にする。おばあさんのだれもが寛容なわけなんかじゃない。もちろん、寛容な人もいるし、恋愛への興味がなくなっていたり、そもそも興味がなかったりする人もいる。あらゆることは年齢とか性別とかじゃなく、人によるのだ。そんな当たり前のことを私は忘れて、「おばあさん」を一括りに、雑にしか見ていなかった。
自分が嫌で、ため息をついた。
スマートフォンが通知で緑色に光っていた。皺の刻まれたおばあさんの私の手が、暗闇のなかに浮かび上がっては消える。
藤崎さんからメッセージがきていた。
「今日、ある人に言われて、京子さんの、顔以外の好きなところを考えてたんだ。そしたら、止まらなくなっちゃって。長くなるけど、まず、人の話をちゃんと聞いてくれるところでしょ。うれしいことがあったら、素直にうれしいっていうところでしょ。苛つくことがあったら、すぐ表情に出るところも好きだ。格闘ゲームをふたりで観ていたとき、負けている側にばかり感情移入するやさしいところも好き。なぜかインスタグラムにエビフライの写真ばかりあげてるっていう、よくわからないところも好き。京子さんといる時間が好きだし、京子さんといない時間が好き。いま京子さんはなにをしているのかなあって考えている時間が好き。他にも好きなところはたくさんあって……」
藤崎さんの文章は延々と続き、何度もスクロールしないといけないほどの長文が書かれていた。
思わず笑ってしまった。
昼間、おばあさんの私の目の前で突然スマートフォンになにか打ち込み出したのは、きっとこのためだったのだ。
うれしい気持ちでいっぱいになった。
今日は、藤崎さんへの思いがころころ変わって疲れた。
やっぱり私は彼のことが好きなんだ。
そう思って、安心して眠りについたのに、朝起きると倦怠感で動けなかった。
なんでなんだろう、と考えたが、これはきっと、おばあさんの皮が起こした不調だった。
長時間おばあさんの皮を被っていたことで、おばあさんの年齢相応の痛みがどっと押し寄せてきていた。
おばあさんの皮を脱がなきゃ。
とりあえず皮を脱いだらなんとかなるはずだと考え、いつも脱ぐときみたいに、両のこめかみをつまんで、皮をぐっと上に押し上げてみても、皮は私から剥がれていかなかった。私にぴったりくっついているみたいだった。ぐっ。ぐっ。と、体の到るところの皮膚をつまんだが、無理だった。脱ぐために皮を切ったりすることは避けたい。もう一度こめかみを思い切り引っ張ると、私はよろめいて、棚にぶつかった。棚の上に置いていたこけしがフローリングに落ちて、嘘みたいにきれいに割れた。
ふたつに割れたその体を見ていると、涙目になってきて、ろくろ線が歪んで見えた。
どうしよう。
「ごめんね。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」
ショックで体の痛みも忘れ、こけしへの申し訳ない気持ちを吐き続けたあと、
「供養しなきゃ」
祈るようにそういった。
土湯温泉に持っていったらいいのだろうか。あそこでは、受け入れたこけしを展示したり、オブジェとして再利用しているようだった。いついけるだろう、とスケジュールアプリを開いて予定を高速で確認しながら、私は土湯温泉の言い伝えのことを思い出していた。
聖徳太子の使者が、お湯に入って病気を治したという話。
その病気っていうのは、確か、体の痺れのことだった。
お湯に入ったら、おばあさんの皮もなんとかなるかもしれない。
今日だったら、なんとか日帰りで時間を作ることができそうだった。
しわがれた声で会社に電話をかけて休みをもらい、体温計で熱がないことを確かめ、こけしを丁寧に包んで鞄に入れ、東京駅に向かった。
福島駅までの新幹線と、福島駅から土湯温泉までタクシーで向かう道中、藤崎さんにどう返事をしようか考えたが、思い浮かばなかった。
温泉街では、この前と変わらず、荒川大橋の脇に大きなこけしが立って出迎えてくれていた。力強い目だ、と思った。なにがあっても動じない目。
私も、こんな風に凛としていたい。
そう思ったのは、入った温泉に、優里がいたからだ。
優里も休みを取って温泉にやってきたのだろうか。聞くに聞けなかった。なにしろ私はいま、おばあさんなのだから。バレないよう、できるだけ関わらないでおこうと思っても、ひさしぶりに見る優里の姿に胸が暖かくなっていた。
こけしはいま脱衣所にある。できたら、悔やみながらも、さっぱりとした気持ちで供養してあげたいと思って、先に温泉に入ることにしたのだ。お湯の効能で少し痛みは和らいできた気がするが、私は緊張していた。さっきから優里が、じっとこちらを見ているからだ。
「あの。なにか?」
視線に耐えきれなくなって、私は聞いた。姿はもちろん、声もおばあさんの私は、優里が知っている私とぜんぜんちがう。
バレるわけがないと思った。
それなのに、
「京子?」
と優里はいった。
「え?」
「京子でしょ。ねえ。やっぱり」
「どうして」
「その格好なに? なんでおばあさんになってるわけ」
「どうして私だってわかるの?」
「え、わかるよ。どうしてかはわからないけど、パッと見て、あれ、このおばあさん、京子なのかな、って。そしたら、ほんとにそうだった」
「ええーなにそれ。不思議すぎない?」
「いやいや。おばあさんの格好してる方が不思議でしょ。それ、なに。コスプレ? それか、わたしらのどっちかが、何十年もタイムスリップしちゃってるとか?」
優里がすーっと近づいてきて、おばあさんの皮を触った。
私の体とくっついていて取れないんだ、私はそういおうとしたけれど、優里に摘まれた皮は、ぶよん、と伸びた。
「ええっ!」
と私が驚いたことに優里は驚いていた。
私は湯船から出て、洗い場でおばあさんの皮を脱いだ。
「おお〜」
と優里が感心するので、おばあさんの皮をまた着て、脱いでを何度か繰り返した。
ふたりで笑った。
皮が緩んだのは、お湯でリラックスしたことだけじゃなくて、優里が、見た目に関係なく、私を私だとわかってくれたからなのかな、と思った。
こけしを納めにいくのには優里もつきあってくれた。大切なこけしだったんだね、と優里がいってくれたことがうれしかった。私が割ってしまったこけしも、いつか生まれ変わって私たちと出会うのかもしれない。
皮は脱衣所で干させてもらった。乾くまで時間がかかりそうなので、優里といっしょに少しあたりを散歩したあと、ベンチに腰かけた。
売店で買った、温泉たまごで作ったプリンをふたりでたべながら、私はいつ優里に話を切り出そうかと考えていた。
私を守ろうとしてくれたおばあさんの皮のこと。
藤崎さんのこと。
東京に出てから起きたことを、優里に聞いてもらいたいと思った。
美人といわれるのが嫌なことも、改めて優里と話し合ってみたい。
それで気まずくなったりしても、私たちはきっと、大丈夫だ。だって優里はさっき、姿に関係なく、私を見つけてくれた。藤崎さんにも、私がおばあさんであることを明かしてみようかなって、私は思う。優里がこういった。
「たぶん、わたしたち、おばあさんになってもいっしょにいるんだよ。いっしょに温泉に入って、こうやってプリンたべてんの」
「うん。そうだね。私もそう思う」
「わっ、見て」
季節外れの雪が降ってきた。
ふと太子堂の方に目をやると、人影が見えた。私に皮をくれた、あのおばあさんだった。階段を、ひとりの若い女の人が上っていくところだった。彼女を見て、おばあさんは微笑んでいた。
(了)
<本作品のモチーフにしたお話・文化>
「姥皮(おっぱの皮)」
<取材協力(敬称略)>
三島町交流センター山びこ
五十嵐七重(語り部)
土湯温泉観光協会
阿部国敏(こけし工人)
*この物語はフィクションです
3 / 3