【書き起こし配信】川村元気氏 クリエイターズパーティー パート2 映画と小説の違い

【書き起こし配信】川村元気氏 クリエイターズパーティー パート2 映画と小説の違い

2015年5月8日、横浜のショートフィルム専門映画館、ブリリア ショートショート シアターにて映像関係者・クリエイターの方々を対象とした交流会「クリエイターズパーティー」が開催された。14回目を迎えた今回のゲストは、大ヒット公開中のプロデュース作『寄生獣 完結編』や著書『億男』『仕事。』で有名な映画プロデューサー・作家である川村元気氏。映画の作り方、小説の作り方 ~映画『寄生獣』から小説『世界から猫が消えたなら』まで~」をトークテーマに川村氏のプロデュース論や作家としてのお話しをたっぷりと語って頂きました。

全2回配信の2回目である今回は、映画と小説の違いについて語っていただきます。

 

スピーカー

・ゲスト 映画プロデューサー/作家 川村元気氏
・MC ブリリア ショートショート シアター支配人 村岡 大介

 


1回目の配信はこちら
http://www.shortshorts.org/2015/topics/news/ja/2985

 ■「何かを失くして、何かに気付く」

MC:川村さんが手掛けた映画は原作モノが多いと思うんですが、原作モノとオリジナル作品とでプロデュースの方法は違ったりするのでしょうか。

ゲスト:僕は自分で映画を作るときは、基本的に原作モノがいいなと思っています。小説家や漫画家が発見したテーマに、映画なりの発明を重ねていくっていうのが面白いと思っていて。オリジナルということに関しては、自分で小説を書くので、そちらのほうで挑戦している感じです。でも小説を書く作業においても、自分で発見したテーマに、自分で発明を重ねていかないと売れるものにはならない、読まれるものにはならないという気がしています。なので、一人で発見も発明もやらないといけない小説執筆作業はかなりの苦行です。命を削らないと到底できないです(笑)。でも映画の場合、誰かが見つけたテーマにチームで取り組むので、とても楽しいんです。
たとえば、吉田修一さんは『悪人』という小説において、『悪意と善意』に関して素晴らしいテーマを見つけたと思うんですよね。『悪人』というタイトルからして発見だと思うんですけど、その原作の発見に李相日監督だったり僕が向き合い、吉田修一さんに脚本を書いてもらう中で、映画としての発明が重なっていく瞬間を体験しました。その過程がすごく刺激的で、面白いんです。

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 登壇中の川村元気氏

一方で今、細田守監督の『バケモノの子』という新作を作っています。オリジナル作品なので、ものすごく重層的なクリエイティブが求められますね。改めてオリジナルでは映画4本分ぐらいの労力が必要なのだなと感じています。それを背負って素晴らしい映画を完成させる細田監督には大きな刺激を受けています。

MC:原作があるということは、作品のファンもいますよね?その方たちの世界観もあるとは思うのですが、その辺は気にされて作るんですか

ゲスト:僕が原作モノをやるときは、自分が原作のファンなんです。そうじゃないものはやらないので。だから、自分が原作ファンのひとりとして自分を裏切っていないかという観点でやっていますね。実は「原作ファン」といってもひとくくりにはできないんですけどね。結局いろんな種類の原作ファンがいるので。
小説を書く時も、ある種僕なりの映画の作り方を踏襲しています。いくつかのテーマの発見があって、そこにいくつかの表現の発明が重なっているかっていうことを気にしてます。たとえば『世界から猫が消えたなら』という小説を書いたときは、発見が3つあったんです。一つは『悪人』で原作者の吉田修一さんに脚本書いてもらったときに、映画と小説それぞれのアドバンテージを発見したこと。
二つ目は、ある日携帯電話を落として、ものすごく困って、公衆電話から友達に電話をしようと思ったら、友達も家族の番号も誰の番号も覚えてなかったんですね。使い始めてたった10年のものに自分の記憶を預けてるんだなと驚愕しました。そのあと電車のなかで、携帯がないので窓のそとを観ていたら大きな虹が出ていたんですよ。びっくりして「みんな虹に気づいてるかな」って思って電車の中を観たら、全員携帯電話みてたんですよね。その時に「何かを得るためには、何かを失わなくてはならない」というテーマがかちっとはまったんです。携帯電話を落としたというネガティブな状況があったから、誰も観ていない虹を見ることができた。なんでもない、携帯を落とした1日の話なんですけどね。それが自分の中の発見ボックスに入ったんです。
三つ目の発見は、映画の編集をやっていた時に気づいたことなんです。現場ですごくいいシーンが二つ撮れ、それぞれを並べてつないだんです。そうすると不思議なことに、どっちも良くなく見えた。単体で見るとAもいいし、Bもいいのに。そういうときは、どちらかのシーンを必ずあきらめるんです。そうすると突然、全体の流れが良くなる。自分がやりたかったことが分かる、という現象が起きるんですよね。

 

MC:「何かを失くして、何かに気付く」というテーマが共通していますね

ゲスト:そうですね、日常の中の違和感みたいなものをどれだけ自分の中で拾っていくか、それが発見なんですけど、それを普段からしていて、それが惑星直列のように並んだ瞬間に、初めてストーリーが動き始めるんです。
『世界から猫が消えたなら』もそういう発見がいくつか並んだところで始まったのですが、ストーリーを強くしていく過程で、表現の発明が重なっていきました。『聖書』の創世記では、神様が月曜日から土曜日にかけてこの世界を創造していきます。その逆を人間がやったらどうかとまず考えました。余命わずかと言われた男が、一日分の命と引き換えにひとつずつ世界からものを消していき、延命していくが、7日目に死を受け入れる。そんなストーリーラインを背骨として思いついた。
もう一つは先ほど話した、小説と映画の違いを物語にできないかということですね。「世界から猫が消えた」状態を読者が脳内で想像して作り上げられる小説と違い、映画で「世界から猫が消えた」状態を表現するのはとても難しいんです。どうやったらそういうシーンを作れるかっていうのが思い浮かばなくって、これこそが小説のアドバンテージだって思えたんですよね。映画のアドバンテージと小説のアドバンテージがあるとして、それなら文章でしかできない表現方法で小説を書こうと思ったんです。
そして小説でしか出来ないことをやりながらも、世界観そのものは映画的にしたかった。『エターナルサンシャイン』という映画が僕はとても好きで「恋愛ってなんなんだろう」という根源的なテーマを寓話的な構図で鮮やかに描いているんですね。そういう映画的な世界観を、小説的なテーマや表現に組み合わすことができないかと試行錯誤しながら書いたのが『世界から猫が消えたなら』でした。
そして今、『世界から猫が消えたなら』にはさらなる矛盾が生じています(笑)。来年、映画になるんです。僕の師匠ともいえる春名慶プロデューサーや大好きなCMディレクターの永井聡監督が映画化をしてくれています。そこで僕は不思議な体験をしているんですよね。自分が「映画で絶対できないことをやろう」と思って書いたものが、映画になっていくときに、映画人たちがどうやって組み立てていくか、そのプロセスを原作者として普段とは逆の立場で見る瞬間があったんです。
小説では世界から電話が消えたり、時計が消えたりするんですけど、僕は消えた後の世界は書かなかったんですね。そこはやっぱり想像の世界で補完してもらいたいと思って。
でも映画はそこを表現しなくてはいけない。どうすればいいのかと考える中で、映画では電話が消えると、電話がきっかけで恋仲になった恋人との「関係」も消えてしまうという表現が生まれたんです。モノが消えるということは、そのモノがつないでいた人間関係が消えるということ。そこを表現するのが映画的だろうと。そういう発明が生まれたときに、あぁそうか、原作を映画にするときって映画的な置換行為をしなきゃいけないし、自分もそれをしてきたんだなと気づいた。
たとえば『告白』で中島哲也監督と話していた時。「告白」の原作は5人の登場人物が独り語りをしている小説なんです。なので、そのまま映画にしたら5人が椅子に座って独り言を言っているだけの映画になるんです。でも映画をご覧になった方はわかると思うと思うんですけど、そうなってないんですよね。映像的に描かれている。僕らはあの小説に対して、ひとつの映画的な解釈をしたんです。読者は5人がしゃべっている独り言はすべて本当のことであるとして読むわけですよね。でも人間っていうのは嘘をつくだろうと、だからこの5人の中に本当のことを言っている人もいれば嘘をついている人もいるだろうと、だからその嘘を映像化しようと。そして爆発された研究室が逆回転して戻っていくという映画オリジナルのシーンが生まれた。少年の嘘の世界がひっくり返されるという様を映像化した。小説的な表現に対して、映画的なアンサーを見つけられるかっていうのが一番原作ものを映画化するときに、大切なのだなと、今回原作者側に回って改めて感じているところですね。

川村元気CP

■自分が泣いたとしたら、そこを何回も見直します。

MC:プロデューサーとして映画をみるっていう行為自体も、プロデューサーの目線であれが気になる、これが気になるってなってなりがちじゃないですか?

ゲスト:ぼくはそれがないんですよね。よく言われるんですけど、映画を観る時にお客さんじゃな無くなった瞬間って一度もなくて、お客さんじゃなきゃダメだと思うんですよね。ふつうに映画が好きなお客さんとしてお金払って映画を観て、うわーってびっくりしたとか、涙が出るとか笑ったとかっていうのが、大事なんですよね。それで自分が泣いたとしたら、そこを何回も見直すんです。それはつまり、俳優の芝居で泣いているのか、音楽で泣いているのか、カット割りで泣いているのか、何で泣いているのか自分の心を動かす要因が仕掛けられているはずだ。それを解明して、自分の手中にしていかないとだめなんだと思います。
映画を最初から評論する目で見ていたら、泣かないし笑わないじゃないですか。だからこそ最初は素直に驚いたり、感動したりする必要があって、それがどういうテクニックで動いているのかということを確認する意味で、もう一回みることはあります。

MC:川村さんが思う面白いって思えるポイントってなんですか?

ゲスト:やっぱりレイヤーの多さだと思います。『寄生獣』だったらアクション、ホラーみたいな大衆的な面白さがはっきりとありつつ、VFXのようなテクニック的な面白さが重なり、さらにもっと掘るとアミニズム的な深層的なテーマが見えてくる。一番表層で観ている人を楽しませつつ、一番深いレイヤーでも楽しめる、見る人を差別しない重層的な映画。それが一番リッチなのかなと思います。

MC:よくショートフィルムだと、表現したいことを詰め込すぎてしまうことが多いと思うのですが、お話を聞いて「捨てていく」ということが重要かなと思ったのですが。

ゲスト:捨てるのはさんざん詰め込んだあとかなと思います。例えば若い監督が、企画を1本持ってきてくれるとします。僕は、もう2本ないですか?と聞きます。それで3本になるじゃないですか、そのあともう2本ないですか?といって無理矢理ひねり出して持ってきてもらう。これで全部で5本そろう。そのあとに僕は初めて企画の話をします。「じゃあこれから、この5本を1本の映画にしよう」と。他人を説得するオリジナルを作るっていうのはそういうことじゃないかと。自分の渾身の5本を1本にするぐらいじゃないと届かない。バラバラに思えても、一人の脳が考えているので1本にできると思うんです。そこまでぎゅうぎゅうに詰め込んだものをばさばさ切って捨てていく。たとえショートフィルムでもそのくらいの過程は必要かと思います。

MC:最後に、川村さんが思うショートフィルムの魅力とはなんでしょう。

ゲスト:短く端的に表現することって一番難しいと思います。だからこそ、映画的な瞬間をどう作るか。それを冒頭でもってくるのか、ラストなのか、それがワンシーンでできれば、その映画は長編でも面白い映画になると思います。映像で作るのか、芝居で作るのか、音で作るのか、編集で作るのか。監督が演出の勝負権をどこで持つのか。ショートフィルムは、それがクリアに出せる場だと思うので、自分の武器は何かということを知るには最適な場所なのではと思います。

~終了~

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トーク終了後の交流会の様子

次回のクリエイターズパーティーは、11月を予定しております。ゲストは決定次第、公式サイト、SNS等で発表いたします。


 

第1回目の配信はこちらから