Project 2

日本各地のストーリー創作

 滞在予定は明日で終わりだが、予定していた転職先にいくかどうかは決めかねている。流れがないところで無理に突っ張ってもしょうがないとは思うが、無職の状態が続くことが望ましいとも思えない。自分の読みの甘さは不甲斐なく思いつつも、甘んじて一旦はすがり、働きながら別の道を探すのが最もリスクが少ないだろう。
 転職についての結論を出せなかっただけでなく、結局コロナビールも飲み切れていない。隣に住む親子が何を抱えているのかもわからずじまいで、あやふやなイメージだけが脳裏を飛び交って、一切は中途半端なまま流されていく。もしかしたら、こんな風に流されていくことの、諦念の在り方について元妻はなじっていたのかもしれないな、と僕は思う。何をあきらめ、何をあきらめないのか。大洋の向こうからやってくるはずの人をいつまで待つのか。多分、僕の方からもうやめよう、と言うべきだったのだ。それでも不妊治療をやめることを彼女は拒否したかもしれないけど、少なくとも意見を戦わせるべきだった。
「君たちは待つことができない」
 元妻はいつからか僕のことを「君たち」と呼ぶようになった。それは、決まって口論の最後の方でのことだ。僕はその呼び方の意味を折に触れ考えてきたが、結局結論らしい結論をいまだ出せていない。
 インターフォンが鳴って僕は我に返る。モニターを見てぎょっとする。人形がカメラを覗き込んでいる。
「どうかしましたか?」
 僕のその問いかけに誰も答えない。いや、それとも人形が一人で動いて、ここまでやってきたとか? まさか。玄関まで行って、ドアを開くと、インターフォンから離れた場所に人形を持った少女が立っている。多分自分の家から持ってきたらしい、野外用のライトを二つ地面に転がして、持っている人形は女性のものからちょんまげを付けた男性のものにかわっている。

 このところ、播州皿屋敷青山館の段

 念仏でも唱えるような間延びした声で言って、少女はマスクをした人形を操り始める。僕はわけもわからず、それを眺めていた。他にどうすればいいのかわからない。長丁場になりそうな予感がして、家に戻ってクーラーボックスに残りのコロナビールを全部詰めて戻ってくると、彼女は演じるのをやめて人形を持ったままそこで待っていた。彼女の正面には似た背格好の女が立っている。それが母親だと気づくまで不思議と時間がかかった。
 僕はクーラーボックスを肩に担いだまま、玄関に立てかけていた折り畳み式の椅子を両手に持って、向かい合う彼女たちに近づいていった。こんばんは、と声をかけたが、母親の方が小さく目礼しただけだった。その割に、ジェスチャーで椅子に座るように促すと素直に従って腰かけた。
 僕はクーラーボックスからコロナビールを一本つかみポケットから栓抜きを取り出して栓を抜いた。ここに滞在中にすっかり身に着いた動作だ。
「良かったら、飲みますか?」
 女は、拒絶しているのかどうか判断しづらい中間的な表情をしていた。受け取らなかったとしても、自分で飲めばいいやと割り切って、もう一本栓を開けて彼女に差し出すと、瓶を受け取り、すぐにぐいとあおる。マスクをしていたのは人形だけだった。淡路では感染はさほど広がっていないのだから、ずっと感染が広がっている東京から来た僕が気にするのもおかしなことだ。
「お嬢さん、いったい?」
 そう母親に聞いてみたのだけど、彼女は答えない。曖昧な聞き方が良くなかったのだろうか? 再度聞き直そうかとも思ったが、固く口を閉ざしてライトアップされた娘を見るさまに二の句が継げなかった。女が、コロナビールをぐいとあおる。娘はライトアップされた人形たちを両手に一体ずつ持ち、時に人形を持ちかえて、台詞を言う。どうやら一人で人形浄瑠璃を演じているらしい。登場する三体の人形は全部が布マスクをしていて、口と顎あたりまでが隠れている。
 母親は、早くも一本目を飲み干したようだった。催促するようにこちらを見るので、僕はまたクーラーボックスから自分の分を含めて二本取り出してポンポンと連続して開け、一つを差しだすと、彼女は受け取ってまたぐびりとあおった。
 浄瑠璃は続いている。娘はよく通る声をしているが、聞き慣れていないからかどういう話なのか入ってこない。一体俺は何に巻き込まれているんだ? 心の中で自問していると、ちょっと笑えてきた。ごくごくとコロナを飲み干して、もう一本を開ける。酔いがまわってきた。
「昼間、よく海を見ていますよね」僕は酔いにまかせて女に言った。
 僕がここでやったことと言えばNetflixを見るか、本を読むか、コロナを消費するかぐらいで、それはどこでもできることで、ここでの特別性は彼女の噂話をするくらいのことだった。---蝶々夫人は実際に待っているんだよ、きっと。あの家は男にあてがわれた別荘で、娘は隠し子で、ひっそりとそこで暮らしている。ごくたまに、そうだな、数か月に一度か、その男が女と子供に会いにやってくる。だがそれも段々と頻度が下がっていって、今では一年に一度訪れるかどうか。きっと女は海の方からやってくる男を待っているんだ。なあ、その蝶々夫人、美人なのか?
 頭の中でよみがえった友人の言葉につられるように、僕は女を改めて見る。
 暗い中で娘を見つめる女の口が動いた。無言で通すつもりなのだろうと勝手に思い、気を抜いていたので聞き逃してしまった。ん、と小さく聞き返すと、彼女はまた一口ビールをあおり、娘を見たまま言った。
「君たちはいつもわかりやすい説明を求めますね」
 君たち?
「でもいい、わかった。じゃあ、わかりやすい説明。あの子が今演じているのは、『播州皿屋敷』。姫路に伝わる伝承を元に作られたお芝居。東京の方では『番町皿屋敷』というのが伝わっているけど、筋は違えど勘所は同じ。大事なお皿が一枚足りなくて、その嫌疑をかけられた女が殺されて井戸に投げられる。日本の各地に似たような皿屋敷伝説が残っている。きっと、なにか想像を掻き立てるものがあるんでしょうね」
 僕はどんな反応を返してよいかわからず黙っていた。でもそうするうちに、何か言わなければという焦りがふつふつと湧いてきて、
「君たち?」
 と呟いた。
「わかりやすい説明。あの子は、ちょっとした心の病を抱えていて自分から外に出ることはほとんどない」僕の問いかけなどなかったように、女はとうとうと話す。「唯一人形芝居をやっている時だけ、あんな風に活動的になる。そのことがわかって学校の先生があの人形を貸してくれた。でも、どうして人形たちにアベノマスクをつけているのかはわからない」
 女の一方的な態度は、口調こそ違うが、娘がこちらの反応も気にせずに、人形浄瑠璃を演じているのと似ている。僕がどう思っているのか、きちんと観ているのかすら気にしていない。僕はスポットライトに照らされた娘の人形芝居に目をやる。日本髪をした女形の服装は、藤色の着物から、白襦袢に変わっている。仰向けに倒れた男形の人形に、上から覆いかぶさるようにして、
「うらめしや」
 と言って人形をふるわせる、その人形の口元は両方にアベノマスク。政府から配られた小さな布製のそのマスクをつけている姿を見るのは、Instagramで自分の小顔をアピールしたいモデル以外では初めてだった。人間には小さくても、人形にとっては大きい。
 母親は二本目を飲み終わっていた。また催促するようにこっちを見ているので三本目を取り出して、差しだした。なんだか負けてはいけないような気がして、半分ほど残っていたコロナビールを僕も飲み干してもう一本を開ける。残りは10本を切った。
「わかりやすい説明」
 コロナビールを口から離し、女が再び呟く。
「確かにこの家は私の持ち物ではないけど、私を出て行かせることは絶対にできない。私は君たちの弱みを握っているから」
 また、君たちだ。僕は元妻のことを思い出す。顔色はあまり変わらないが、女はもう随分酔っているのだろうか? わかりやすい説明と称している割に、女の言っていることはまったくわかりやすくなかった。彼女はコロナビールを飲み干す度、新しいものを目で要求して、僕はそれに従った。僕も彼女のペースに合わせて飲んだ。その間も彼女は「わかりやすい説明」を続け、やがて我々は二人でコロナに打ち勝った。
「四枚、五枚、六枚、七枚、八枚、九枚。ああ九枚しかない、一枚足りない」
 それがその芝居の正しい終わり方なのか、それとも途中でやめてしまったのか、娘はそこでやめると人形三体を担いでこちらに近づいてきた。すぐ近くまできた娘の視線を追うと、母親が酔いつぶれて寝ていた。何を聞いても娘は一切答えない。結局僕が母親を、娘が人形を担いで彼女たちの家まで運んだ。それが正解だったかどうかはわからないが、とりあえずそうするしかなかった。救急車を呼ぶか、ベッドまで運ぶべきかと思っていると、娘が僕を追い払うようなジェスチャーをする。
 酔いつぶれているとはいえ、寝息も安定していたし、ベッドで寝なくても風邪をひくこともないだろう。
 別荘に戻りながら、疫病が蔓延する現状との不整合に思い当たって苦笑した。

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プロジェクト参加作家

  • 兵庫県 上田岳弘

    上田岳弘(うえだ・たかひろ)

    1979年、兵庫県生まれ。早稲田大学卒業。2013年、「太陽」で第45回新潮新人賞。2015年、「私の恋人」で第28回三島由紀夫賞。2016年、「GRANTA」誌のBest of Young Japanese Novelistsに選出。2018年、『塔と重力』で平成29年度芸術選奨新人賞。2019年『ニムロッド』(講談社)で第160回芥川龍之介賞。

    「君たち」

    有給消化のため、淡路島にある別荘地に滞在する「僕」は、隣の家で暮らす謎の母子に出会う。うらめしや――日本人形で『播州皿屋敷』を演じる少女と自らの境遇について「わかりやすい説明」をする母親との一晩の記憶。

  • 福島県 大前粟生

    大前粟生(おおまえ・あお)

    小説家。92年兵庫県生まれ。著書に小説集『のけものどもの』(惑星と口笛ブックス)『回転草』『私と鰐と妹の部屋』(書肆侃侃房)『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』(河出書房新社)

    「おばあさんの皮」

    「美人とかいわれるのが嫌だった」。故郷の福島県三島町から上京する途中、立ち寄った土湯温泉で「おばあさんの皮」を手渡された京子。皮を被っておばあさんに変身し、気になる男性の心のうちを探ろうとするが……。

  • 北海道 高野ユタ

    高野ユタ(たかの・ゆた)

    北海道出身、在住。2020年、ショートショートの文学賞にリニューアルして初回となる第16回坊っちゃん文学賞で「羽釜」が大賞を受賞。

    「日映りの食卓」

    千雪は、お母さんが作ってくれた最後の朝ごはんを食べなかったことから、食べものをうまく受け入れられなくなる。夢で熊になってとる食事に助けられどうにかやり過ごしてきたが、一周忌が迫ったころ状態は悪化。そこで、一人の同級生と出会う――。