そのあと二回、私は私本人としては現れず、おばあさんとして藤崎さんに会った。
叔母が突然交通事故に遭ってお見舞いにいかないといけなくなって……。
今度は叔父が突然交通事故に遭ってお見舞いにいかないといけなくなって……。
そう書いたメッセージを待ち合わせの時間の直前に彼に送ると、「了解です。気をつけてね」と返事がきた。
どちらの理由も嘘なのに、彼の対応は大人で、若者の私が現れないことへの落ち込んだ素振りをおばあさんの私には見せたりもしなかった。
また会いましたねえ、と彼は笑顔になって、この前のお礼に、とおばあさんの私が渡した、どこに売っているのかわからないお饅頭を笑顔で受け取り、しかもその場でたべてくれた。
さりげなく、だれかとデートとかはしないのか、と聞くと、気になっている人はいて、笑顔が素敵なんです、と藤崎さんはいった。きっとそれは、私のことだった。笑顔っていうのは、外面と中身、どちらを表しているんだろう。中身のことだろう、と私は都合よく受け取って、そろそろ、私本人として彼と休日に会ってみようと思った。
申し訳ない気持ちもあった。嘘をついたこと、皮を被った姿で彼に会ったこと。会うほどに藤崎さんのきれいな内面がまぶしくて、その光で私の心には影ができていくようだったから。
その次の休みに、自分から藤崎さんを誘った。
おばあさんではない、本当の私として、私は藤崎さんと新宿御苑で会った。
とてもいい天気で、
「いい天気ですね」
「いい天気ですね」
と言い合った。普通のことを話すだけで楽しかった。
藤崎さんはぐうううっと伸びをして、全身に空気いっぱい吸い込んでこういった。
「自然に囲まれていると安心するんです。木々も池も大きくて、自分なんてなんでもないように思えるんです」
「それ、すごくわかります。自分なんてなんでもないような感覚って、気持ちがいいですよね」
そうなのだ。おばあさんの皮を被っているあいだは、その皮の下で自分が消えていられる感覚があった。だれからも嫌な目で見られない。隠れていられることの快感があった。でもいまは、皮を脱いで、私をさらけ出している。
「うれしいです」
と私はいった。
「なにがですか?」
「こうやって藤崎さんと会えて」
私がそういうと、藤崎さんの顔がいっそう明るくなった。
私たちは、新宿御苑を歩きながらお互いの話をした。
藤崎さんはテレビゲームが趣味で、こっそりやっているゲーム実況配信が盛況になり、少額だが収益化もできているということ。私はホラー映画が好きで、実家のある福島ではよく友だちといっしょに家で観てこわがったり、映画のなかで絶叫する人のまねをふたりでしていたということ。藤崎さんは本当は営業じゃなくてシステム開発の業務をしたいということ。私はけっこう社内報課の業務が嫌いじゃないということ。
おばあさんとして何度か会っていたおかげで、私は藤崎さんと淀みなく話すことができた。
彼に気を許していた。たくさん笑うことができた。
それからというもの、藤崎さんとは予定を合わせて頻繁に出かけるようになった。
映画を観にいった。遊園地にいった。オープンカフェでWi-Fiを繋いで、藤崎さんおすすめの格闘ゲームの大会を何時間もいっしょに見た。夜景の見える高級レストランで食事をしたりなんかもしたが、それ以上の関係には進まなかった。それは、私にはうれしいことだった。性欲や体の相性なんかが絡まない関係は、お互いのことをきちんと見つめ合えているような気がした。
ずっとこうやって、とても仲のいい友だちみたいに過ごせればいいのにな。
そう思いながら、私はきっと、告白されたりしたらオッケーするんだろうな、と自分でわかっていた。
藤崎さんと出かけるようになって、何か月も経った。
いきたい場所はだんだん尽きて、気に入った場所に何度もいくようになった。私たちは、あまり規模の大きくない遊園地にいくのが好きだった。
その日はふたりで井の頭公園に出かけた。
池を眺めながら、私は妙な既視感に襲われていた。
「そういえばあのおばあちゃん、元気かな」
柵に背を預け、向かいにあるベンチを眺めながら、彼がぽつりとつぶやいた。
そうだった。季節はちがうけれど、はじめて私がおばあさんの皮を着て彼に会ったのは、こんな風にちょうどいい気温の日だった。
まさに、藤崎さんがいま見ているベンチの前で私は転んだのだった。
そこをいま、ひとりのおばあさんが通りかかった。
よろめいて転びそうになったところを、彼が駆け寄って肩を支えた。
なんだか、夢を見ているようだった。
やっぱり彼のことが好きだ。
そう思った。
おばあさんの無事を確かめ、少しお話をしたあと、私と藤崎さんは夜になるまで散歩をした。この思いを、いつ、どう伝えたらいいのだろうか迷っていると、神妙な面持ちで、彼が口を開いた。
「好き、です。つきあってほしい」
今どき、しかも大人になって、はっきり告白をするなんてめずらしい。勇気のいることだろう。
「うれしい。私も好き」
彼はパーッと笑顔になって、そのまま泣き出しそうだった。
「その、私のどこが好きなの」
「わっ。涙だ。オレ泣いてる。ははは。好きなところね。うん。顔が好き」
一瞬、体が固まった。
彼は泣き笑いしながら、はぁー、緊張したー、と顔を覆った。顔を覆いたいのは、こっちの方だ。彼が両手で顔を覆ってこちらを向いている数秒間が、途方もなく長く感じられた。
だれかに私の思いを聞いてほしかった。優里に電話をかけようとして、やめた。優里にはうまく伝わらない気がした。家に帰って、ベッドの上でひとり、泣きそうになっていると、棚の上のこけしが目に入った。そうだ、このこけしはずっと私と暮らしていて、私のことを見てくれていた。
「美人とかいわれるのが嫌だった。そんなことをいってくる人はみんな、私の内面なんかどうでもいいみたいに見えてくる……」
話しはじめると止まらなかった。私はこけしに悩みを聞いてもらった。
○
出退勤時と業務中にマスクを着用するように会社から指示が出たのは、藤崎さんから告白された翌日のことだった。50周年記念冊子の作成は佳境に入っていて、私は地下の資料室と自社ビルの6階にある社内報課を往復する日々を続けた。
どの社員もマスクをして顔の半分を覆っていた。私もそうしていた。だれの顔も、うまく見ることができないし、だれからも見られないのはとても安心することだった。地下にこもって人と会わず、黙々と作業する時間はこれまで以上に落ち着くものに思えた。
あのとき、私も好き、とはっきりと返事をしたし、藤崎さんと私はつきあっているということになる。けれど、その日以降はふたりで出かけていない。
正直、彼のことが急にわからなくなったのだ。
ずいぶん前、彼がおばあさんの私にいった言葉はなんだったんだろう。
会社で顔を合わせたときに二、三言話す他は、コロナがこわいことを理由に、彼とはしばらく会わなかった。
そんなある日、
「落ち着いたらちょっと話したい」
とメッセージがきた。
彼を好きだと思う気持ちが、ないとはいえない。
でもその好きに、彼のことをこわいと思う気持ちがまざって、自分でもどうしたらいいかわからない。
私たちは、井の頭公園で会うことにした。
けれど私は、私ではなくて、おばあさんの皮を被って現れた。
おばあさんの皮が私を守ってくれると思った。
約束の時間を過ぎていくと、彼はめずらしく苛々していた。腕時計をしきりに気にしながらうつむいていた。足音がして、私がきたと思ったのだろう、パッと顔を上げた彼は、目の前にいるのが私ではなくておばあさんであることにがっかりしていた。
「おひさしぶりです」
と彼は、マスクの上の目を無理に綻ばせるように私にいった。
「おひさしぶり」
と私はいって、隣のベンチに座った。
お互いマスクをしながら近況の報告をした。
私は、自分で作り上げた架空の孫の話をした。
孫に好きな人がいること。でも、最近孫は、相手のことがよくわからなくなっていること。
どこかで、彼が私の正体を見破ってくれていたらいいのに、という思いがあった。
自分も、と藤崎さんはいった。
「自分も、彼女とうまくいってなくて、でも、心当たりがなくて」
「そうなの」
と私は、ふたりの仲を心配しているみたいにいって、よかったらその相手のことを聞かせてほしい、と彼から彼女(つまり私のことだ)の話を聞き出した。
なんかインタビュー受けてるみたいですね、と彼は笑った。
「ふむふむ」
一通り話を聞いた私は、神妙な面持ちで考え、
「告白したときの、『顔が好き』っていう言葉がまずかったんじゃないの」
と彼にいった。
「ほら、私も……じゃない、私の孫も、そういうのが嫌だって、以前あなたに伝えたでしょ」
「頭ではわかってるんですよ。見た目で人を判断するのがあんまりよくないことだっていうこと。でも、好きなものは好きなんです。オレは京子さんの顔、すげえ好きなんです。好きなのに、それを伝えないのは、おかしいだろって思ったんです。お互いに好きなんだから、もしオレの京子さんへの『顔が好き』が迷惑だとしても、オレの気持ちを受け止めてくれるんじゃないかって、オレ、そう思うんです」
彼は、言葉を選びながら、でもどこか自分が正しいことを確信しているようにそういった。
「迷惑だってわかってるんなら、いわなくてもよかったんじゃ……」
返事をしながら私は、でも、彼のいいたいことも少しはわかっていた。好きな相手にはわがままな自分を見せたい、どこまで自分を受け止めてくれるか、確かめてみたいという気持ちを。
ところで、と私はいった。
「顔以外に、彼女の好きなところは……?」
いちばん聞きたいのはこれだった。私は、おそるおそる聞いた。
すると彼は、じっと黙り込んだ。
ええー、と思った。
即答できないのか、とショックだった。
彼はスマートフォンになにか打ち込みはじめ、黙りこくった。
私が隣にいることを忘れたかのように、なにかを書いたり消したりを続けていた。
私がベンチを立つと、彼はどこか遠いところを見るような目で、
「あ、じゃあまた」
といった。
私は家に帰って、その日にあったことをこけしに聞いてもらった。そうしているうちに疲れが押し寄せてきて皮を着たまま、倒れ込むようにベッドに横になった。