久しぶりに新幹線の広島駅で降車しても、直樹の心に感慨のようなものは湧きあがってはこなかった。
ここに来たのは、いつぶりだろう。
高校を卒業して上京してからは年に一度ほどしか広島には帰省してきていなかったし、戻ってきても廿日市 の実家には寝泊りのために立ち寄るくらいのものだった。
母親が早くに亡くなってからは、直樹たち三きょうだいはときどき宮島から来てくれる父方の祖父母や近所の人の助けを借りながら、父親の哲夫に育ててもらった。
いや、直樹には「育ててもらった」という感覚はあまりない。
もちろん、わざわざ面倒を見に来てくれていた今は亡き祖父母や、近所の人たちへの感謝はあった。が、父親は朝から晩まで仕事で家におらず、助けがないときの直樹はいつも妹の由香子と弟の和人と三人で留守番をしていた。たまの休みに家族で出かけることもあったものの、何かとバタついていて父親に構ってもらったという記憶はほとんど残っていなかった。
父親は、自分のことを何とも思ってないんじゃないか……。
しだいに直樹は、そう考えるようになっていき、高校を卒業すると同時に早々に家を出た。妹とも弟ともケンカばかりの日々だったので、心残りは何もなかった。
大人になって自分も親になった今となっては、父親だけで三人の子供を育てていく大変さは痛いほどよく分かる。それでも、一度離れた心はそう簡単には戻らなかった。
だから、病気が見つかったと父親から連絡があり、もう長くはないらしいと聞かされたときも、なるほど、とどこか冷めた自分がいた。まっさきに浮かんできたのも父親の心配というよりは、これから発生するであろう事務的なことへの憂慮だった。
由香子も和人も似たような思いなのだと分かったのは、父親の入居するホームを決めるためにオンラインで話し合ったときだった。
「二人が決めてくれたら、おれはそれに従うよ」
最初に和人がそう言って、すぐに由香子が口にした。
「なんそれ。あんたは決める手間も責任も、ぜんぶ人に押しつけて逃げるつもりなんじゃろ?」
「いや、ぜんぜん違うんじゃけど。勝手に決めつけんなよ」
「おいおい、こんなときにやめろや……」
直樹が割って入ると、由香子が噛みつく。
「兄さんこそ、こんなときだけ兄さんぶらんでほしいんじゃけど。っていうか、自分ひとりだけさっさと東京に出てこれまで好き放題やってきたんじゃけぇ、これからは兄さんがお父さんをみんさいや」
「いやいや、なに言うとんじゃ。由香子らやって、おれと同じ年になったら家を出たやろ。それにな、東京からやと広島はしょっちゅう行ける距離じゃないんよ。家族もおるし」
「そんなん大阪からも別に変わらんし、私やって家のことで忙しいんじゃけど。そしたらさ、和人がうまくやっといてや。あんたは独身なんじゃけぇ、大阪におってもなんとかなるじゃろ」
「はあ? 独身じゃけぇ暇とか、決めつけやん」
「決めたら従うって言うたやん」
「そういうことじゃないんやけど──」
言い合いはつづいて、その日は終わった。
そして数日たっても結論は出ず、結局は揉めているうちに父親から広島市内のホームへの入居を決めたと知らされたのだった。
その父親からまた連絡があったのは、それからしばらくしてのことだった。
「すまんが、頼みたいことがあるけぇ、こっちまで来てくれんか?」
父親からの頼みごとなんて初めてだったが、直樹は目下の仕事と家族のことで日々時間に追われていて返事を渋った。が、父親は由香子と和人にも来てほしいと言っている、と口にした。
「三人に頼みたいことがあるんじゃ」
そう言われると、直樹は断りづらかった。
もし自分だけが行かなかったということにでもなったなら、あとで二人から何を言われるか分からない。それに、自分がいないところで何かの話が進むのもイヤだなぁと考えた。
やむを得ず、直樹は「分かった」と返事をした。そして、由香子と和人とすぐに話して、ホームを訪れる日取りを決めたのだった。
市電を降りて直樹がホームの前に到着すると、由香子と和人はすでに来ていた。
「頼みたいことってなんじゃろうね……」
直樹がこぼすと、由香子が言った。
「葬儀のこととかお墓のこととか、そういうのじゃない?」
「縁起でもないことを言うなよ」
「でも、大事な話じゃろ?」
「そりゃそうやけど……」
横から和人が口にする。
「葬儀の手配はやるとしても、お墓は母さんと同じ廿日市のとこに入るんよね? そしたら、誰がお墓の管理をするんじゃろ」
「そういうのは長男やろ」
由香子の言葉に、直樹は反論する。
「こんなときだけ都合よぉ立場を使うなよ」
「あっ、私が遺産を多めにもらえるんやったら、ちょっと考えてあげてもええかも」
和人もつづく。
「おれも」
「じゃけぇ、今はそういう話は……」
「冗談やって。けど、まあ、正直なとこ多い分にはありがたいけどね」
「それを言いだしたら、おれやって……」
「あっ、もしかして」
和人が言った。
「今日の話っていうのも、遺産のことじゃないんかな? ドラマとかでよくあるじゃん。遺言を託すシーン」
「えっ、そういう感じの招集なん? 心の準備ができとらん!」
「いや、そうと決まったわけじゃ──」
三人はぶつぶつ言い合いながら、父親の個室の前までやってきた。
直樹は「三島哲夫」というネームプレートを確認してから、ドアをノックして中に入った。
「おお、来たか。遠いところをすまんかったのぉ」
父親は病気のわりには元気そうで、直樹たちは少し拍子抜けしてしまった。
久々の再会を喜ぶ言葉も特になく、哲夫はすぐに切りだした。
「頼みたいことっていうのはのぉ……」
哲夫はふいに自分の頭に手をやった。引き抜いたのは三本の髪の毛で、怪訝な表情を浮かべる直樹たちに一本ずつ手渡した。
「これを持って、三人で因島に行ってもらいたいんよ。そこに“光陰”を作ってくれる職人がおってな。話はもうつけとるけぇ、持っていくだけで大丈夫じゃけ」
「こういん?」
意味が分からず、直樹は尋ねる。
「何の話なん……?」
「とにかく、行きゃあ分かる。どうじゃ、行ってくれるか?」
直樹は、いつものやつか、と呆れ果てた。
口数が少なく強引なのが、直樹が父親の欠点だと思っていることのひとつだった。
「よぉ分からんけど……百歩譲って大事なことやとしてさ。それって三人で行かんといかんの? 誰かが代表で行くんでようない?」
しかし、父親は繰り返し口にした。
「忙しいんは分かっとるけぇ、後生の頼みじゃ。それでもう、思い残すことは何もない。わしも、おまえらが帰ってくるまでに相続の話をまとめとくけぇ」
直樹たちは顔を見合わせた。
自分も含めて、全員が乗り気じゃないことは明らかだった。
が、父親の真剣な表情に、直樹はしぶしぶうなずいた。
「分かったわ……」
個室を出ると、直樹は由香子と和人から責められた。
「なんで引き受けとん!?」「勝手に決めんでよ!」
「父さんも長ないんやし、さすがに断れんじゃろ……」
沈黙する二人に、直樹はつづける。
「じゃあ、午前中のうちに出発しょうかぁ」
「は!?」「今から!?」
「こういうんは、はよ終わらせといたほうがええ。それに、また来るよりマシじゃろ。まあ、このあと二人に予定がなかったらの話やけど」
由香子と和人は考えこんだ。
「……おれは一応、行けるけど」
「……ちょっと家族に相談してくる。そんなんで相続してもらえんなったら最悪やし」
由香子はいったん席を外して、しばらくすると戻ってきた。
「私も行ける」
直樹はスマホを取りだして、さっそくレンタカーを探しはじめた。
因島 までの道中は、三人ともほとんど無言だった。
直樹の運転する横で、由香子は眠り、和人はスマホゲームをして暇をつぶした。
初めて会話らしい会話をしたのは、しまなみ海道に入ってからのことだった。
「海やっ!」
直樹が橋の上からの景色に思わず声をあげると、和人がつづいた。
「うわぁ、瀬戸内海なんて久しぶりやぁ……」
いつの間にか、由香子も目を覚ましていた。
「海はぜんぜん変わらんねぇ……」
深い藍色をたたえた穏やかな海は、太陽光を反射してキラキラと輝いていた。ところどころに島があり、そのあいだを小船がゆっくりと横切っている。
「そういやぁ、因島って、むかし家族で行ったことがあったよね」
由香子がぽつりとそう言った。
和人がうなずく。
「サイクリングね。父さんに無理やり連れてかれて大変やったなー」
「ね、自分だけ張り切ってから。橋にのぼるまでの坂道がキツすぎて、死ぬかと思った」
直樹も話に加わった。
「島を走っとるときに、無人の果物屋とかもあったよなぁ。和人が八朔 を食べたいって自転車を停めてねだるけぇ、仕方なく買って父さんがカゴに入れて必死に自転車を漕いどったなぁ」
「そんなことあった?」
首を傾げる和人に、由香子が言った。
「あったあった。でも、それって八朔やなくてデコポンやない?」
「そうやっけ?」
「あっ、せとかやったかも……」
「なんでもええよ」
和人のツッコみで、車内の雰囲気が少しだけなごむ。
因島に到着したのは昼過ぎで、三人は軽く食事をしてから父親に教えられていた場所に向かった。
その職人の工房は、山の中にあった。
直樹はチャイムを押して、名前を告げた。
「あの、午前中にお電話した三島ですけど……」
「ああ、お待ちしとりました」
扉が開いて、作務衣姿の初老くらいの男性が直樹たちを迎えてくれた。男性は、自分はここの職人で、先ほどの電話を取った者だ、と口にした。
「ご依頼は先立ってお父様からいただいとりますけぇ、ご用意もできとります。どうぞ中へ」
職人に通された一室で、直樹たちは哲夫から渡されていた髪の毛をそれぞれ出した。
「これを預かってきたんですけど……」
「ありがとうございます」
大事そうに受け取る職人に、直樹は尋ねた。
「こんなん、何に使うんですか? というか、そもそも光陰っていうのは……」
「そのあたりは、完成品をお見せしながらお話ししましょう。小一時間ほどでできますけぇ、お茶でも飲みながら待っといてください」
そう言って、職人は作業場らしい奥の部屋へと消えていった。
彼が戻ってきたのは、きっかり一時間がたった頃だ。
「お待たせしました」
職人は細長い三つの桐箱を差しだして、直樹たちひとりひとりに手渡した。
「中に光陰が入っとります。どうぞ、開けてみてください」
促され、直樹たちは箱を開けた。
現れたのは矢だった。
しかし、直樹たちのよく知る矢とはどうも違った。鏃 も箆 も、羽根も矢筈 も、全体がまばゆく輝いていたのだ。
「光陰、矢のごとし、という言葉はご存知ですか?」
三人はうなずく。月日がたつのは飛ぶ矢のように早い、という意味合いだ。
職人はつづける。
「その言葉のように、依頼主の方の過ぎ去った月日を矢として具現化させたもの。それが、この光陰なんです。私の家系は代々、この地で光陰を作る職人をしておりまして。先代は、お父様のお父様、つまり三島さんたちから見たおじい様の光陰も手掛けさせていただきました。当時のことは、私も若き日に横で見とって覚えとります。まあ、それはともかく、せっかくですので、まずはみなさんも光陰に触れてみてください。それに込められとるものは、見とるだけでは分からんですけぇ」
「はあ……」
直樹は由香子と和人の顔を見た。二人ともポカンとしていて、自分と同じ気持ちになっていることが伝わってくる。
光陰とは、過ぎ去った月日を矢にしたもの……。
職人の言葉の意味は、正直なところよく分からなかった。
たしかに目の前の矢は神秘的で、神具のように特別な何かがありそうな感じはした。祖父もこれを作ってもらったということならば、きっと古くから伝わる縁起物みたいなものなのだろうとも考えた。
しかし、月日を矢にしたという部分については首をひねらざるを得なかった。
謳い文句のようなものなのか……。
直樹は由香子と和人を見た。二人とも、困惑した表情を浮かべながらも光陰を手に取ろうとしていた。
とりあえず、触ってみるか……。
そう思い、直樹は渡された光陰という矢を手に取った。
その瞬間のことだった。
直樹は不思議な感覚に包まれた。
光陰に向かって、全身が吸いこまれていくような感覚だ。
視界もまばゆい光に埋め尽くされて、直樹は思わず目を閉じる──。