ふいに景色はまた替わる。
今度の哲夫は、どこかの部屋の中にいた。
直後、直樹にはここがどこだかすぐに分かった。墨で文字の書かれた大量のしゃもじが、あたりに並んでいたからだ。それは琵琶型しゃもじの発祥の地、宮島で売っている縁起物のお土産だった。
間違いない、と直樹は思う。
ここは宮島にあった、祖父母の家だ。
直樹の祖父母は、しゃもじに文字を入れて売る土産物屋を自宅の一角で営んでいた。だから直樹たちも祖父母の家に行ったときには、商品を包んだりレジに立ったりして仕事をよく手伝っていた。
しかし、今は21時を回っていて、祖父母のお仕事も終わったあとだと直樹は分かる。
目の前では、やはり三人の子供たちがくつろいでいた。いつもなら寝る準備をはじめている時間のはずなのに、どうやらまだ風呂にも入っていないらしかった。
そのとき、哲夫が言った。
「そろそろ行くか」
「うん!」
子供たちは声を弾ませ、哲夫につづいて外に出た。
夜道は提灯を持って同じ方向に歩いていく人たちであふれていた。
それを見て、直樹は状況を理解する。
管絃祭 !
直樹は高揚感に包まれはじめる。
日本三大船神事のひとつの管絃祭は、旧暦6月17日に行われる海の神事だ。
神様を乗せた三艘の和船──御座船は、この日の夕方に厳島 神社を出発し、宮島の対岸にある地御前神社を訪れる。そこで儀式を執り行って船は再び宮島に戻ってき、提灯を持った人々がそれを迎える。そうして長浜神社、大元神社と順次儀式を行っていき、厳島神社に帰ってくるという具合だった。
その厳島神社でのフィナーレを見届けるために、長浜神社で船を迎えた人たちが提灯片手に厳島神社まで移動する。
それがいま目の前を歩く人たちで、ちょうちん行列と呼ばれる光景だ。
ところが、幻想的な光景の中、由香子が文句を口にした。
「最悪やー、私も提灯持ちたかったー」
直樹少年も賛同した。
「おれもよー。和人がお腹痛いって騒がんかったら行けたのにー」
二人の言葉に、和人は泣きそうな顔になる。
たしなめたのは哲夫だった。
「終わったことは終わったことじゃ。おまえらは、いつまでもネチネチ言うなっ!」
哲夫は和人のほうも向く。
「和人もや。こんくらいのことでメソメソするなっ!」
哲夫に言われて、三人はそれぞれ不満そうな表情を浮かべながらも、ちょうちん行列に交じって歩きはじめる。
やがて、家族は厳島神社に到着する。
満月のもと、ライトアップされた朱色の社殿が暗闇にぽっと浮かんでいる。
四人は戻ってくる御座船を見るために、回廊の一角に陣取った。手を伸ばせば届くほど高くなった海からは、濃密な潮の匂いが漂ってきていた。海面には社殿に連なる提灯の灯りが反射して、優美に揺らめいている。
どれくらい時間がたったか、哲夫が大きな声をあげた。
「来たぞっ!」
視線の先に現れた御座船が、海にそびえる朱色の大鳥居をくぐりはじめる。人々は大きな拍手と歓声で船を迎える。
やがて船は儀式を終えて、いよいよ一番奥まったところにある枡形まで進んでくる。
雅楽の演奏が鳴りわたるなか、船に乗る男衆は息を合わせて力の限りに櫂 を漕ぐ。異様な熱気が支配する。カメラのフラッシュを激しく浴びつつ、船は社殿すれすれのところで三度回る。
そうして儀式を無事に終えると、拍手喝采に包まれながら神様は本殿へと還御された。
圧巻の光景に、三人の子供たちは言葉を失くして立ち尽くしていた。直樹も同じように呆然として、ただただ厳かな気持ちに包まれる。
しかし、哲夫だけは違っていた。
雰囲気に圧倒されつつも、ひとり願い事を捧げていた。
家族みんなが、いつまでも元気でいられますように。
そんな思いが膨らんでいくのを、直樹は強く感じとる。
子供たちが、立派な大人になりますように。
本殿に還っていった神様に、哲夫はいつまでも願いつづける──。
やがて景色が切り替わり、いつしか直樹は職人の工房に戻ってきていた。
手元を見ると、光陰は相変わらずまばゆい光を放っていた。
ぼんやりしたまま、直樹は隣に視線を移す。
寝起きのような顔をした由香子と和人がそこにいる。
「どうやら感じていただけたようですね。お父様の光陰を」
職人は、いたずらっ子のように笑っていた。
「いえ、笑ったりしてすみません。何しろ、今のみなさんの表情が、おじい様の光陰を受け取ったときのお父様にあまりにそっくりだったもので」
恥ずかしさを覚えつつも、三人はつられて笑う。
直樹は言った。
「まだ夢の中にいるみたいですけど、これが光陰なんですね……父にきちんと渡します」
そうして直樹たちはお礼を伝え、職人のもとを辞したのだった。
帰りの車では、三人ともが饒舌だった。
それぞれが追体験した父親の月日は、共通しているものもあれば、そうでないものもあった。
由香子は、自分の見た湯来町での光景を二人に話した。
「覚えとる? 昔、お父さんに連れていってもらったときのこと」
言われて直樹も思いだす。
湯来町にある牧場のこと。そこで食べたジェラートのこと。
それらの話で盛り上がったあと、由香子は言った。
「でも、牧場のあとに古民家カフェに行ってさ、温泉にも行って、おまけに夜は蛍まで見に行ってからやっと帰って……お父さん、いくらなんでも詰めこみすぎよね。さっきもなんか途中で疲れて、ぐったりしたわ」
車内は笑い声で満たされる。
「おれは正月の牡蠣のシーンを見たんやけど、兄さんと姉さんは覚えとる?」
和人の言葉に、直樹と由香子が声をあげる。
「正月の牡蠣!」
「懐かしっ!」
直樹たちの家では、正月に殻付きの牡蠣を庭で焼いて食べるという習慣があった。正月の朝に車で港の牡蠣小屋に行き、一斗缶に入った牡蠣を買ってくるのだ。
「うまかったし、贅沢やったよなぁ……」
やけど、と和人はつづける。
「ぶっちゃけ量が多すぎて、途中からは、もういらんってならんかった?」
「うわっ、分かる!」
「なったーっ!」
「なんかおれら、最後は父さんに気ぃつかって、がんばって食べとったよね」
直樹も由香子もうんうんとうなずき、また笑う。
会話は派生したり、また戻ってきたりを何度も何度も繰り返した。それは車を返却して父親の待つホームに向かっているときにも途切れることなくずっとつづいて、三人はときどき腹を抱えて笑い合った。
市電の中で、そういえば、と口を開いたのは由香子だった。
「市電といえばさ、お父さん、ふだんの移動は車やのに、広島市内に行くときだけはなぜか電車やったよね」
直樹が答える。
「そうやっけ? 球場でビール飲むからじゃないん?」
「ううん、野球のときだけやなくて、たまに買い物に行くときとかもそうやった」
すると、和人が言った。
「おれ、その理由知っとるよ」
「えっ?」
視線をやった直樹と由香子に、和人はつづける。
「いつやったかな……不思議に思って聞いてみたら、ぽろっとこぼしたんや。父さん、市電が怖いらしくてさ」
「ええっ?」
「ほら、市電の線路と道路って、ハッキリした区切りがないじゃろ? 車に乗っとったら電車にぶつかりそうでヒヤヒヤするけぇ、市内では運転したないって言うとった」
「いや、そりゃ、中にはそういう人もおるやろけど……お父さんのイメージと違いすぎん!?」
由香子は、ぷっと噴きだした。
「だって、市電は自転車より遅いんよ?」
その言葉の通り、地元の人は時間を優先するなら他の移動手段を選ぶほど、市電の遅さは有名だった。
もちろん、市電は運賃が安いし、大雨のときなどもがんばって走ってくれるようなイメージもある。車両を見たら地元に帰ってきたなぁという感じがするし、直樹は愛着を覚えている。
しかし、あのかわいらしくてのろのろ走る市電を父親が怖がっていたというのはかなり意外で、なんだか微笑ましくもあった。
「詳しい話、あとで直接、父さんに聞いてみよかなぁ」
「いいね、おもしろそう」
意地悪く笑う直樹と由香子に、和人は慌てる。
「ちょっと! おれが言うたって言わんでよ!?」
市電はにぎやかな三人を乗せたまま、がたんごとんと夕暮れどきの広島市内をのんびり走る。
直樹がおもむろに切りだしたのは、しばらくしてのことだった。
「なぁ、二人に話があるんじゃけど──」
哲夫は個室に入ってきた直樹たちの姿を認めると、すぐに言った。
「帰ってきたか。三人とも忙しいのに悪かったのぉ」
直樹たちは苦労話もそこそこに、さっそく桐箱を取りだした。それぞれが手元の箱のふたを開け、中のものを哲夫に見せる。
「おお、相変わらず、あの工房はええ仕事をしてくれるなぁ」
哲夫は満足げに、まばゆく光る三つの光陰を眺めはじめる。
直樹が口を開いたのは、そのときだった。
「父さん、ごめんな……」
哲夫は光陰から視線を外して、直樹のほうに顔を向けた。
「なんじゃ急に」
「今さら過ぎるかもしれんけど、おれは恥ずかしいくらいに何も分かってなかったわ……」
「なにがじゃ」
「父さんのことや」
由香子と和人も、直樹につづく。
「私も自分のことばっかりで……」
「おれも……」
哲夫はぎこちなく首をかしげた。
「よぉ分からんことを言うとる暇があったら、さっさとそれを渡してくれや。約束通り、相続の話もしとかんと。あっちに逝ったあとに揉められでもしたら、目も当てられんしな」
哲夫をさえぎったのは直樹だった。
「父さん、そんなことより、もっと大事な話があって……」
「うん?」
「さっき三人で話したんよ。父さんは、これを伝えたかったけぇ、おれらに光陰のことを頼んだんじゃろうなって」
直樹の言葉で、由香子と和人が手元の光陰を取りだした。直樹はそれらを受け取ると、自分のものを加えた三本を束ねて哲夫に見せた。
「毛利元就の“三本の矢”なんじゃろう?」
それは史実ではないものの、直樹たちもよく知っている、かの戦国武将、毛利元就の逸話だった。
元就は最期のときに、三人の息子を自分のもとに呼び寄せた。そして矢を一本ずつ手渡して、折ってみるように促したという。それぞれの矢があっさり折れてしまったところで、次に元就は矢を三本束ねたものを同じように折ってみるように言い渡す。が、息子たちは束ねた矢を折ることはできなかった。その事実をもってして、元就は三人で結束することの大切さを説いた。
これが毛利元就の“三本の矢”だ。
由香子が言った。
「私ら、完全にお父さんの術中にはまったわー」
和人も苦笑を浮かべている。
「よぉ知っとる話やのに、まさか自分らが同じ状況になるとは思ってもみんかった」
哲夫は静かに耳を傾けているだけで、三人の推測を肯定も否定もしなかった。
そんな哲夫に、直樹がつづける。
「でも、なんか癪 やなぁって、三人で言うとったんよ。やられっぱなしじゃ済まされん、これは父さんにも一泡吹かせてやらんと収まらんぞって。それで話しとるうちに、元就の逸話のツッコミどころに気がついたんじゃ。たしかに矢は束ねたら折れにくくなるわけやけど、そんなことしたら矢は飛ばんくなるよなって。たとえ飛ばせたとしても、一本のときより飛ぶんがめっちゃくちゃ遅くなって、矢の意味がなくなってしまうやんって」
その言葉に、平然としていた哲夫の表情が少し揺らいだ。
直樹たちはその哲夫の変化を見逃さず、三人で顔を見合わせニヤリと笑った。
が、一拍おいて、まじめな顔で由香子が言った。
「まあ、そんな感じで揚げ足を取って楽しんどったわけじゃけど……今の私たちにしてみたら、むしろそっちのほうがええんじゃないかっていう話になってね」
「……どういうことや?」
哲夫の問いには、和人が答える。
「これは都合のええ願望に過ぎんかもしれんけど……三人がひとつになって束になったら、おれたち家族のこの先の月日も、一本の矢みたいには早く過ぎていかんくなるんやないかって。もっと言ったら、月日の過ぎ去るのが遅くなったらええなぁって」
つづきは直樹が引き取った。
「そしたら、父さんとの残りの時間もゆっくり過ごせるかもしれん……そんな話を三人でしとったんじゃ。それこそ、月日が過ぎていくのも市電くらいに遅くなったらええなぁって。あっ、父さんは市電が怖いんやったっけ」
直樹の言葉に、由香子はぷっと噴きだした。
そんな二人を和人はにらみ、哲夫は怪訝そうな顔になる。
「それはまあ、いいとして」
直樹は神妙な顔で、こう言った。
「あとどれくらい時間があるかは分からんし、今更かもしれんけど……父さん、これからはおれたちと過ごす時間をなるべく多く作ってくれん? お互いに、うっとうしいわぁ、はよ過ぎてくれぇ、って思うくらいに。光陰、矢のごとしじゃなくて、光陰、市電のごとしやわぁって、誰かが愚痴りはじめるくらいに」
(了)
<本作品のモチーフにしたお話・文化>
毛利元就「三本の矢の教え」
<取材協力(敬称略)>
広重未奈
*この物語はフィクションです
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