幼い頃、お母さんに連れられて訪れたお祭りで、生まれてはじめて聞いたお囃子 の音は、森の奥に住む悪い魔女が呪文を唱えているみたいに聞こえて怖かった。
耳慣れない古い言葉で構成された歌詞。ちょっとしゃがれた女の人の歌い声。低く轟 く太鼓の音を筆頭に、チャンチャンチキチキと響くやけに陽気な音楽。
夏で暑くて、お母さんと繋 いだ手はべとべとと汗ばんでいて、人込みの中を歩くと大人たちのお尻ばかりが視界に入ってきて、それが不快で――。
ねえ、もう帰ろうよ。わたし、帰ってアニメが見たい。お腹 も空いたし暑いし、帰りたい。
思いつく限りの帰りたい理由を頭の中に浮かべ、訴えかけようとしたまさにその時、不意に視界が開けた。人の波がちょうどよく捌けたのだ。
十九時を過ぎたというのに、空はまだほんのりと明るかった。それに加えて、いたるところからにょきりと生えた照明の数々が、その光景を――その人たちを眩 しいばかりに照らしていた。
薄紫色の上品な浴衣に、深紅の帯を纏 った、美しい女性たち。
♪おてもやん
あんたこの頃嫁入りしたではないかいな
嫁入りしたこつぁしたばってん
*
「う……うぅ……あっつ」
もわっとした嫌な空気の中で、目が覚めた。
カーテンの隙間から漏れる日の光が、朝の訪れを報 せていた。いや、そんなことはどうだっていい。恨めしい気持ちでベッドの横に目をやると、年季の入った扇風機がカタカタと情けない音を出しながら首を回していた。
「向日葵 、起きたねー?」
一階から、お母さんの声が響いてきた。「起きてまーす」と気のない返事をしてからようやっと立ち上がり、両腕をぐぐっと天井に向って伸ばす。唸 るような声とともに息を吐いたら、今日もまた、わたしの冴 えない一日がはじまる。
白いシャツに、プリーツの少ない武骨な黒のスカート。ひょろりと細いひも状のリボン。一度も染めたりパーマをあてたりもしたことのない、真っ黒な髪をてきとうになでつけたら、準備は完了である。全身くまなく校則に準じた、没個性女子高生の完成だ。
顔を洗ってからリビングへ向かうと、両親は既に朝食を終えていた。呑気 にあくびをしながら登場したわたしを、すっかり身なりを整えたお母さんが呆 れたように一瞥 する。
「ねえ、わたしの部屋でも寝るとき冷房つけていい? もう毎晩毎晩暑くて、わたしゆでだこになるけん」
「駄目。あんたすぐお腹壊すけんね」
「ええー。もう壊さんて、子供じゃないんだけん」
「あっ、お父さん待って! お弁当! あー! もうよかけん、はよご飯たべんね!」
「……はーい」
大人しく返事をして、椅子に座る。我が家の朝食は、ごはんよりもトーストの割合の方が圧倒的に多い。食パンにイチゴジャムを塗って、もそもそと口に含む。リビングは冷房が効いていて心地良い。ああ、天国みたい……。なんて考えていると、
「あー。なあ、向日葵。もうすぐ夏休みたいね」
と。
今まさに仕事へ出かけようとしていた、白いワイシャツ姿のお父さんがこちらをぐるんと振り向いて、いかにも不自然な調子でそんなことを言った。わたしはびっくりして、パンの二口目を食べようと口を「あ」の形に開いた状態のまま一瞬固まってしまった。
「う、うん。なに、急に」
「いや……オホン。お友達とお出かけをしたりとか、そういう予定があるのなら、遠慮なく言わんといかんけんね。お小遣いはなるだけ出すけん」
「え、」
「……おっと、時間たい。じゃあ、行ってきます」
お父さんは腕時計を確認しながらそう言い、さっさと仕事へ向かった。残されたわたしは、「なん? 今の」と、キツネにつままれでもしたかのような気分になった。暑さでおかしくなっちゃったのかな。なんて呑気に考えていると、相変わらず呆れ顔のお母さんが口を開いた。
「お父さん、あんたがあんまり外に出んけん心配しとるとたい」
「……は?」
「だけん、本当は友達と遊びたいとに、自分たちに遠慮しとるとじゃないかー、って。本当は全然そがんことないのにねぇ。あん人、自分が高校生の時はサッカー部で、毎日バリバリ部活に励んで、友達と遊んでって、絵に描いたような青春を送っとらした人だけんね。向日葵も本当はそがんしたいはずたい! なのになんでそがんせんとだろうかー! 遠慮しとっとだろうか!? ……って、まあ。そう思っとらすみたいよー」
身振り手振りで、全然似ていないお父さんのものまねをするお母さん。それに対して、わたしは思わず顔をしかめた。
「うわっ、なかなか、全然ないて、そがん爽やかなやつは、わたしには向いとらん!」
「……それ、自分で言ってて悲しくならんとね?」
こちらに向けられる、哀れむような表情。わたしは「う、うるさいな」と言いながら、誤魔化 すように大口を開けてパンにかぶりついた。
向日葵、というのがわたしの名前である。英語でいうとサンフラワー。太陽の花。なんと輝かしい名前なのでしょう。
実際のわたしといえば、太陽なんかとは程遠い。勉強はそんなに得意じゃないし、運動はもっともっと得意じゃないし。少女漫画なんかではよく、わたしのような冴えない女の子が学校一のイケメンになぜか好かれて恋に落ちたりするけれど、そんなことも、もちろん、ない。ないのである。
「向日葵、おはよー」
「あ、すみちゃん、おはよ」
「今日も暑いねえ」
熊本駅の構内で電車を待っていたわたしに、かわいらしい声で話しかけてきたのは、幼稚園の頃からずっと仲良しの同級生・糸井菫 ちゃんである。通称すみちゃん。小さな顔を覆いつくすような太い黒縁の眼鏡がトレードマークだ。
わたしたちはいつも、駅の構内で落ち合って、学校まで一緒に向かう。八時十分発の各駅停車。たとえどちらかが遅れても待ってあげたりはしないのが、わたしたちの中での取り決めだ。……まあ、わたしはともかく真面目なすみちゃんが遅れてくるようなことは滅多 に、というか過去に一度もないけれど。
電車がやってきて、降車する人の波を見送ってから、車内に乗り込む。二人して並んで立ち、外の景色を眺めていると、どこまでも抜けるような青空に、大きな大きな入道雲が浮かんでいた。
車内アナウンスが、わたしたちが降りるべき駅の名前を告げた。学校までの道のりで、同じ制服を着た人たちの姿が多くなる。暑さのせいか、みんなどこか気 だるそうだ。
ようやっと学校にたどり着いて、校門を抜けようとすると、一人の女子生徒が生徒指導の先生に捕まっているのが目に入った。
岡崎先生は厳しいことで有名だ。いつも白いジャージに黒いTシャツ、赤いスニーカー姿で怖い顔をして校門の前に立ち、ちょっとでも校則を破っているとおぼしき生徒を見つけると、両目をカッと開いて「コラッ、そこ!」と呼びつけ、説教をはじめる。その声があんまりに大きいものだから、呼ばれた生徒は決まって周囲の注目の的になってしまい、朝からなんとも恥ずかしい思いをするはめになる。
「麦ちゃんだ」
すみちゃんが、ぽそっと小さな声で呟く。捕まっていたのは、同じクラスの夏井麦ちゃんだった。理由は一目でわかる。ゆるいウェーブのかかったふわふわの髪は、地毛というには無理のある、明るい栗色に染まっていた。
「でもでも先生、あたしこの色ほんとーっに気に入っとるとたいね! 染め直すなんてぜったい嫌! ねえ! どうか! ほんと! このとおり!」
「気に入っとるかどうかなんて聞いとらん! 来週までに黒くしてこんといかんけんね」
「えええ~」
麦ちゃんは、そんなあ、と目に見えてショックそうな顔をした。それを見てくすくすと、登校途中の生徒たちが笑っている。岡崎先生に怒られているのに深刻なかんじにならない生徒は、学校中探しても麦ちゃんくらいだと思う。明るくてかわいくて人懐っこくて、ここが漫画やアニメの世界だったならまさに“主人公”ってかんじの麦ちゃんは、学年問わず人気者だ。
でも、わたしは正直、そんな麦ちゃんのことが苦手だ。あの明るく元気な性格が、天然なのか計算なのかまったくわからないから怖いのだ。
例えば誰かが、放課後ヒマな人を集めてカラオケ行こうよ、と言う。この言葉を細かく分析すると、「放課後ヒマで、なおかつノリが良い人を集めてカラオケ行こうよ」という意味になる。
しかし、そんな時。麦ちゃんは「いーねっ」と笑ったかと思うと、本当にクラス中手当たり次第に声を掛けだすのだ。
もちろん、わたしやすみちゃんのような、目立たない二人組にも。
「ねえ、ひまちゃん、すみちゃん。放課後カラオケ行かん?」
断られるなんて露ほども思っていません、みたいな顔でわたしたちにそう声掛けをする麦ちゃん。そんな麦ちゃんの背後で、クラスのイケてるグループに属する女子たちが呆れた顔をして笑っている。
そういう一連の出来事のすべてにわたしは、自分がカーストの下位にいるのだということを突き付けられたような気持ちになり、なんとなくモヤモヤしてしまうのだ。そして、この子、本当に天然なのか? 天使みたいな笑顔の下で、わたしたちを馬鹿にしているんじゃなかろうか? なんてひねくれたことを考えてしまうのだった。
向日葵、なんていかにも夏っぽい名前をしているのに、わたしは四季の中で夏がいちばん苦手だ。世の中がきらきらと明るい色に満ちて、否が応でも何か意味のあることをしなければ、充実した日々を送らなければ、という気持ちにさせられるのだ。高校生になってからは特に、そういう焦りのような気持ちを強く自覚するようになった。
「ねえすみちゃん。この夏なんすると?」
「え? えーと、博多の方に住んどるおばあちゃんの家に行く、くらいかな。向日葵は?」
「……わたしはなんも決まっとらん」
「そっか」
「ああああ~。ねえ! わたしたちってば、こんなんでいいとかなあ!?」
「え、な、なに。こんなんって?」
「だけんさあ、ほらっ!」
ガラス張りの渡り廊下からは、外のグラウンドがよく見える。陸上部が練習用の木のハードルをひょいひょいと飛び越え、野球部が野太い掛け声を上げながらランニングしている。ダンス部の女の子たちはおそろいの派手なTシャツ姿で体育館へ向かってゆき、わたしたちが今いる校舎の上の階からは、吹奏楽部が奏でる楽器の音がボォボォと響いている。
「みんな、一生懸命なのに。わたしたちってどう? 放課後は何もせんで、どこも行かんくて、どっちかの家に集まってユーチューブ見たりしてるだけたい。花の女子高生だっていうのに、のほほんとしすぎじゃない?」
「よかたい、のほほん。私、のほほんとしてるの好きだけん」
「まあそりゃ、わたしだってそうだけどさあ」
もう一度、ちらりと視線を外へ移す。するとちょうど、きらきらと眩 く輝く栗色の髪が目に入った。麦ちゃんだ。珍しく一人で、グラウンドの方をじっと見ている。
わたしはなんとなく、麦ちゃんの横顔をじっと見つめた。わたしの横で、すみちゃんが「じゃあ何か、今からでも部活に入ってみる? なんがよかかなあ。私、家庭科部とか興味あるかも。お料理好きだし。あとはー……」と一人で延々喋 っているのを聞きながら。
麦ちゃんは、大仰な黒いカメラを掲げていた。そして、あるタイミングで弾 かれたようにシャッターを切る。データを確認するような仕草を見せると、うーん、と首を傾 げてもう一度、レンズを覗 き込んだ。
「あ、麦ちゃんだ。また写真撮っとる」
ひょい、とわたしの後ろから顔を出したすみちゃんにそう言われて、思わずドキンとしてしまった。
「すごかよねえ、かっこよかー。インスタのフォロワー、一万人もおるてたい」
「は!? そがんね!?」
「うん。噂では、高校を卒業したらここを出て、プロのカメラマンとして活動する予定らしいよ」
「へえー……」
うっとりした顔でそう語るすみちゃんに、素直に「ほんと、すごかね」と同意して言えない。
同い年なのに、既に一万人ものファンを持つ麦ちゃん。
かたや、何もせず、何も持っていないわたし。
麦ちゃんはきっと、卒業したら熊本を出て、さっさと東京へ行ってしまうのだろう。やりたいことが明確に決まっている人っていいな。いつかわたしにも見つかるだろうか。見つけられるだろうか。……何も見つからなかったらどうしよう?
「ま、まあまあ、大丈夫て、向日葵。私たちまだ二年生だし、そんな焦ることないて。……あっ、ほら、お祭りのポスター出とるよ!」
昇降口まで降りてきたところで、すみちゃんがわたしを励ますように、わざとそんな明るい声を出した。
すみちゃんの指さした先には、赤と黒の派手な色合いのポスターがでかでかと飾ってあった。毎年見かける、地元のお祭りのポスター。そこに添えられた、着物姿の女性のイラストを見て、わたしは今朝の夢を思い出した。
あの鮮烈な光景。
『火の国まつり 8月2日・3日・4日開催
おてもやん総おどり:3日 19時15分~20時40分
会場:水道町交差点~銀座通り交差点(電車通り)
金銀銅賞に加え、審査員特別賞を設けて皆様のご参加をお待ちしております。奮ってご参加ください!』
「……これたい」
「え?」
「すみちゃん、これ一緒に出よう」
数秒の間、お世辞にも上手とは言えない、トロンボーンの間抜けな音が響く。
のほほん、が売りのおっとりしたすみちゃんは、しかし放課後の校舎に響き渡るような大きな声で、
「えっ!?」
と、叫んだ。
*
「――おてもやんとは、熊本県に伝わる代表的な民謡である。作詞作曲は慶応元年生まれの永田稲とされているが、曲中に登場する“おてもやん”のモデルは公表されていない。二拍子の軽快な曲調と陽気な歌詞が特徴的で、若い女性たちの恋愛観や結婚観が描かれている……だってさ」
「はー」
「はーって、もうっ」
熊本駅の新幹線乗り場のすぐ近くにあるおてもやん像を見上げながら、すみちゃんがスマホで調べた情報を話してくれる。着物を着て、両手どころか片足まで陽気に上げたおてもやん像は、今にも動きだしそうなくらい躍動感がある。
「くまモンが登場するまでは、熊本県の名物キャラクターといえばおてもやんだったらしいけん」
「えっ、そうったい。全然知らなかった」
駅のいたるところに描かれた、赤いほっぺが印象的な黒いクマ。その姿は、町中どこを歩いても目に入る。お土産屋さんにはくまモングッズが溢 れかえり、観光地にはくまモンの看板が並び立つ。
「でも、なんで急におてもやん総おどりに出よう! て言いだしたと?」
「だってさ、すみちゃんや。わたしたちってば花の女子高生ていうのに、夏休みになんの予定もないじゃありませんか」
「なんね、じゃありませんかて」
「わたし、火の国まつりっていつも花畑広場でやってる縁日くらいしかいかんとだけど、小さい頃に一度だけ、総おどりを見たことあるとたいね。きれいだったなあ、あん時踊ってたお姉さんたち……」
「……麦ちゃんが活躍してるのを知って、焦ったとだろ。自分も何か意味のあることをやらなん! って。それで、たまたま目に入ったポスター見て思いついたとだろ」
「ぎくっ」
「もう、わかりやすいとだけん」
すみちゃんは呆れたように言いつつも、あははと穏やかに笑った。付き合いが長い分、わたしのことをよくわかっている。
「そ、それだけじゃないけん。だって、わたしたち来年は受験生たい? 勉強やら何やらで、今年みたいに好きに遊べんくなるだろうし。それに、卒業したら、わたしたちいよいよ離れ離れになるけん……」
幼稚園の頃から一緒のすみちゃん。わたしはまだ自分の進路を決めかねているけれど、すみちゃんはずっと前から憧れていたのだという、関西の大学を受験すると決めている。
「……なるほど。思い出作りってわけだね」
ぽそっと小さな声ですみちゃんが言った。わたしたちの横を、スーツケースを引きずった人たちが何人も通りすぎてゆく。いずれはすみちゃんもここを通って、この地を出るのだろう。
「うん、わかった。やろっか」
ややあって聞こえてきたその言葉に、わたしはパッと顔を上げた。
「ほんと!?」
「うん! それに……なんか嬉 しい。向日葵と何かできるのが」
「す、すみちゃん……!」
照れくさそうに笑うすみちゃんに、じいんと、胸が熱くなる。わたしはそのまま、よしっ、と声を張り上げた。
「どうせやるからには優勝目指そう!」
「あはは。うん、そうしよう!」
おおーっ、と二人して拳 を振り上げる。なんだなんだと、不思議そうな眼差しがいくつもこちらを向く。
おてもやん像の前で高々と拳を振り上げる、女子高生二人。その絵面 の間抜けさが可笑 しくて、自分のことながらわたしは笑った。
お祭り本番まで、あと二週間。