窓の外では、また通り雨が降りはじめた。雲の切れ間から差し込む太陽の光が雨粒に反射して、その一帯だけまるで魔法がかかったようだ。
「瑠璃 ん家のパーパーとマーマーは高校時代からの純愛を貫いてるんだもん、すごいさー。うちらはどうなっちゃうのかなあ。不安。不安すぎて、でーじ食べてしまうさー」
そう言って、カオルが最後のフライドポテトをくわえる。放課後のエンダー(A&W)は地元の中高校生のたまり場だった。私は決まってルートビアとポテトだし、カオルは、オレンジジュースとホットドッグだったのに、この頃のカオルはハンバーガーセットをぺろりと平らげて、マフィンに手を出すこともある。
カオルは隣の高校の先輩と付き合っている。来春、先輩が内地の専門学校に進学するからこのところずっと荒れていた。モデル体型の彼女の少し後を歩く小柄な先輩は「優しそうだね」の代表のような人だから、心配ないと思うんだけどな。
「Zoomとかもあるし、きっと大丈夫だよ」
私は何度目かの慰めの言葉をかけて、雨雲のようなルートビアを飲み干す。それでも、「週一回は会わないとダメになる」とか「絶対に他の女の人になびく」とか、わめく今のカオルは正直イケてない。
なんだって恋人じゃないといけないんだろう。私だってこんなに近くにいるのに。先輩がカレーならば、今この時間は、つけあわせのらっきょうだというのか。実際、放課後私がカオルを独占できるのは先輩が塾の週2日だけだった。
瑠璃はどうして彼氏を作らないの? 好きな人いないの? と不思議がられるけれど、その答えを面と向かってカオルに打ち明けることは一生ないだろう。あなたといるだけで、私は幸せなのだと、時々喉まででかかって、ゴクリと飲み込んだ。
「ね、瑠璃ん家のパーパーとマーマーにスランプはなかったの? クラスのマドンナだったマーマーって確か内地の人だったよね?」
「どんなかなぁ。あんまり親の恋愛って興味ないからなあ」
「まーねー。でも、ああいうの理想の夫婦だよ〜。未 だに恋人っぽい雰囲気さぁね? いいなー」
おかあは二十二歳で私を産んでいる。二人は私にわざわざ言わないけれど、結婚より私を身ごもった方が早い。別にそれが悪いとは思っていないし、おかあの言うようにきっと神様のお導きだったのだろう。でも、その年齢に近づくほどに遠のいていくような気がするのは、あまりにも今の自分とかけ離れているからだった。
店の時計が五時を指していた。
「あ、やばい。私、船の時間だからもう行こうね!」
「島っ子は大変だぁ。走れ走れー」
元陸上部のカオルの足なら船着き場まで三分もあれば間に合うけど、私はどんなに頑張っても十分はかかる。また明日ねと、手を振って小雨の中へ飛び出した。
へばりつく蟬しぐれの声が私を現実に引き戻す。空から伸びる光の輪が走っても走っても私を捉えて離さなかった。いつもより足が重たくて上手 く走れない。船を乗り過ごして、あのままカオルと残ることを選べない自分が、とても退屈な人間に思えた。
「あいっ、瑠璃ちゃん。急がなくて大丈夫さ。すぐ転ぶよー」
操縦士の玉城 のおっちゃんがよく焼けた顔で、私の後ろからタバコを吹かしながら桟橋を歩いてきた。高速船乗り場では小船が波に揺られながら、私を待っている。職員さんに定期券を見せ、乗りこんだところで、おっちゃんは出入り口のドアを閉め、操縦席に回るとグルルルルッとエンジンをかけた。船体はゆっくりと方向転換し次第に速度を上げ、水面を跳ぶように走りはじめた。
買い出しを終えて島へ帰る人や観光客で、この時間の船は賑 やかだ。甲板に上がるとせっかく整えた前髪を風が勢いよくかき分け、おでこが顕 になる。小船の先端が海を二つに割って、海面に道が作られ、霧吹きのような潮風が顔を湿らせる。海の匂いだ。もはやこの体も同じ潮騒の匂いが染み付いているに違いない。
私は甲板から見るこの景色が一番好きだ。生まれてから何百回と見ているのに、飽きることがなかった。行きの風景と殆 ど同じはずだけれど、帰りの方が何倍も愛おしく思えた。きっとそれは、これからも変わらない。いつの間にか雨は上がって、海はオレンジ色に染まっていた。
家に帰ると、おとうが外の洗い場で頭を洗っていた。サトウキビ畑の草刈りをしていたのだろう。蛇口を締め縁台に置いた作業着をはたくと、くっついていた草が一斉に宙に舞って、汗や草や草刈り機の油の混ざった、夏の終わりの匂いがした。
「おう。瑠璃ちゃん、おかえり」
「ただいまー」
「新学期はどんなね? 楽しくやってるねぇ?」
「うん。ふつうかなあ。ふつうに楽しいよ」
「普通ね……。なんかものたりないさー。おとうの高校時代なんて、もうまるごと青春って感じだったけどねえ。ねぇ、翔 ちゃん」
台所に向かって叫ぶけど、おかあは換気扇の音で聞こえてないみたい。おとうは、私のパッとしない答えが納得できないようで、洗濯機を回しながらまだしつこく話しかけてくる。だって、今が人生の頂点だったら逆にこれからが不安だよ。最高は先に取っておきたい。
高校二年の夏、転校してきたおかあをおとうが一方的に好きになったと聞いた。聞いたというか、年忌焼香 や、お祭のあと、酔っ払った親戚や近所のおじさん達が喋 りだすんだもの。その話題になるとおとうも調子に乗って、
「ひと目見た瞬間に、これは運命なんじゃないかって思ったわけさ〜」
なんて饒舌 になる。
島にやってきたおかあは驚くほどかわいかったらしい。「そりゃもう月からきた天女なんじゃないかってくらい」と、おとうの幼馴染 たちが捲 し立てる。譬 えが古い。後光を放っていたんだそうだ。「今だって安室 ちゃんだ安室ちゃん」と、どっかのおじさんが叫ぶけど、それは無理がある。今は、こんがり焼けて、ふっくらとした沖縄のおかあだ。
おとうたちは結局酔い潰 れて、そのままみんな家の座敷で雑魚寝 するのだった。「ほんとに男はバカだよねえ」と言いながら、いつもタオルケットをかけてやるおかあは、やっぱり天女かもしれない。
夕飯の片付けをするおかあと目が合う位置で、おとうは取り込んだ洗濯を畳んでいる。オリオンビールを半分ずつコップに分けて飲みながら。他の家の親を知らないけれど、カオルの言う通り二人はまだ恋人同士のようだと思う。
弟の剣都 は、テーブルで宿題をしている。中一になっても、剣都は台所でないと勉強がはかどらないのだそうだ。おばあが買ってくれた高級学習机も今では物置になって、できる子はどこでもできることを証明するのだった。
風呂上がりの私は、お中元にもらった青森のりんごジュースを飲み飲み、両親と弟のいる、平凡で特別な今日を眺める。同じような血が流れているということ以外、私達は似ていることもあれば全く理解できないこともある。この4人で暮らしていることを、たまに不思議に思う。二人が、他の人と結ばれていたらまた別の形の私がいただろうか。それともいないのか。おとうは運命だとか言うけど、私は偶然だと思った方が気が楽だった。
「そうそう瑠璃、個人面談で先生も言ってたけど、そろそろ進路のこと決めないとねぇ」
油断していたらおかあが直球を投げ込んできた。カオルみたいに親に全く気にされないのも寂しいかもしれないけど、同じことを毎月一回は聞かれるのもなかなかきつい。最近の私が何をしていても憂鬱 なのはこのせいだ。
「おかあたちに遠慮しないで、瑠璃の好きなように進んでいいんだよ」
「うん、おとうもそう思うよ。夢はでっかくさ。やりたいことやってみたらいいさ」
二人はいつもと同じことを言う。多分その言葉の危うさを本当には知らないのだろう。
「やりたいこと……かあ」
「やりたいことがまだ分からないなら、とりあえず大学へ行ってみるのがいいんじゃないかな?」
二人は、やりたいことをやってきたのだろうか。そして、やりたいことをやるってそんなに幸せなことなのかな。
「いや、それ逆じゃないば? 学びたいことがあるから大学行くんでしょ」
宿題をしていた剣都が顔を上げて呟 いた。言わないけど、彼はもう具体的な目標が見えているのだろう。剣都は中学受験をし、片道一時間半かけて私立中学に通っていた。自分から中学受験したいと言った時、「この家に一人だけなぜこんな、でいきゃー(秀才)な子が生まれたのさー」などと、親戚中にからかわれたが、私はさほど驚かなかった。剣都はやがて島を出ていくだろうと子どもの頃から思っていた。同じ場所で生まれ育っても、肌に馴染む人と馴染まない人がいる。剣都はここを離れるための準備を物心ついたときから進めていたのだ。
「おかあは、どうだったの? 高校二年の夏までは東京で暮らしてたんでしょう? 卒業したらやりたいこととかなかったの?」
「夢ねえ……あったのかなあ。もう随分前のことだから忘れちゃったねぇ」
そうやっていつもはぐらかす。私には夢を聞くくせに自分の夢を語らないのはずるい。それとも、夢や目標を持てるのは今だけなのだろうか。大人になり親になったら、そういうのは一切が消えてなくなるというのか。おかあは何かに夢中になったり、おとう以外に恋することはなかったのか。
「そうそう、今日カオルがね、おとうとおかあにスランプはなかったの? って言ってたよ。高校時代からずっと一緒って一途すぎだよ。お互いに初恋の人ってことでしょう?」
おとうが風呂に入ったことを確かめて、おかあは恥ずかしそうに話しだした。
「実は、おとうって5回も告白してきたの」
「はぁや! 怖いレベルさぁ!」
「うん。他の人は大体3回で諦めたよねえ。でも、おとうは絶対に一生幸せにするからってしぶといってば。一生だなんて、高校生がよく言うよねえ。それで、半ば押し切られるように付き合いはじめたわけさ。でも、本当に毎日が楽しくてびっくりしたさー。おとうって少年みたいな人でしょう? ずっと一緒にいるのに飽きないのよ。高校時代が続いてるみたいな感じ。気がついたら二十年経 ってたのよねえ」
気がついたら二十年って、そんなおとぎ話みたいなことが本当にあるんだ。友達でも、そう思える人とはなかなか出会えないだろう。
「校門前に他校の男子もずらりとおかあを見に来てたって、友達のおかあが言ってたよ」
「転校生だったから珍しがっただけさ。あんたの方がずっとかわいい」
おかあはそう言って、5歳児を見るような眼差 しを私に向ける。
「はっせ、適当なこと言って。親のかわいいほどアテになんないから」
「でもねえ、私はずっと嫌だったさ。かわいいって言われるの」
「なんねそれー、嫌味〜?」
「だってね、表面的にしか見てもらえないって、けっこう不幸なことだよ。じゃあかわいくなければ、優しくしてもらえてなかったんじゃないかとかね、人のこと疑ってしまったりもしたの。私のいいところって、見てくれだけなのかなってね。もっと中身で繋 がりたかったことがたくさんあったさぁ」
おとうは、きっとそうではなかったのだろう。最初は表面的に好きになったのかもしれないけど、おかあの全てを受け止め愛した。もしおかあが違う姿だったとしても、時間をかけて今と同じ二人に辿 り着いたに違いない。
担任の佐野 っちは進路指導のとき「自分の好きなことが何かを考えてみなさい」とよく言う。好きなこと、好きなこと……と頭の中で唱えて、最初に浮かぶのはこの島や沖縄だった。離れる気にはなれない、というのは言い訳で、出る勇気がないだけなのかもしれない。私は、おかあやカオルのように美人でもなければ、おとうのように人を惹きつける無邪気さにも欠けているし、剣都のようにはっきりとものが言える人でもない。自分にしかないものも自分にしかできないことも見当たらなかった。
一ヶ月後、ちょうどその日は剣都の中学の運動会で、家族はみんないなかった。私は手狭になった自分の部屋の大掃除をしていた。今度、カオルが泊まりに来たいと言うので、もう一つ布団を敷けるくらいのスペースは確保したいと思ったのだ。
棚に入れたままにしていた中学時代の教科書やノートを紐 で束ねて、ガレージにしまいに行く。
立て付けの悪い扉を開けると、もわっと湿気った匂い。家の押入れには入れてもらえない忘れられた記憶が押し寄せてくるようだった。
子どもの頃はよくここで、剣都や近所の子ども達と肝試しをして遊んだ。久々に入るガレージは、今にも思い出が破裂しそうにひしめき合っていた。かろうじて人一人が作業することはできるが、壁にとりつけられた棚には、ダンボールや衣装ケースが重なり、すでに置き場所がなかった。おとうもおかあも、捨てられない人だから、次から次に積み上げていく姿が目に浮かぶ。はー、私がやるしかないか。本当に必要ないものは処分していかないと。
私は、軍手をつけると奥の古そうなダンボール箱から開けていった。信じられない。最初の箱はおとうの高校時代の教科書じゃないか。テストまで出てきた。国語50点、化学40点……。あちゃー、とっとと捨てておかないからこういうことになるんだ。
箱を開けては、カビ臭い本やノートを出していく。こっちは誰のだろう。2004と書かれた黄色いバナナ箱には、洋菓子の本や、細かく赤字の入ったレシピ、外国語で書かれた資料が無造作に突っ込まれていた。ところどころ付箋が貼ってあったり、プリントが挟まったまんまで、昨日まで使われていたかのようだ。水色のファイルを取り出しパラパラと捲 っていると、「仏 留学説明書」と書かれたページが目に止まった。きっと旅好きなおとうの妹のものだろう。そのページには一緒に茶封筒が挟まっていた。
糊付けされていない封筒を開け厚紙を引き出す。〈TOKYO−PARIS〉と書かれてあるその紙は、一目でフランス行きの航空券だと分かった。半券が切られていないということは、チケットを取ったけれど行かなかったということか。日付はMarch/10/2004 私の生まれた年。一体誰が──。
色あせて名前が消えかかっている上、ガレージの中は薄暗くてよく見えなくて、私は外に出てチケットを太陽の光にかざした。
〈SHOKO YAMAWAKI〉
山脇 ……それは、おかあの旧姓だった。
背中につーっと汗が流れ、虫の音が遠くなる。私は、ぼうっとして何だかこれ以上作業できなくて、元あった場所に荷物を押し込んで家に戻った。