それからしばらくして、おかあは昔のレシピを引っ張り出してお菓子を焼きはじめた。カヌレ、マドレーヌ、タルトタタン、クレームブリュレにクイニー・アマン……時間を取り戻すように、自分の気持ちを確かめるように、台所はいつも甘い匂いに包まれた。子どもの頃に時々作ってくれたけど、本気モードのフランス菓子たちは、今すぐお店を出せばいいのにと言いたくなるほどおいしかった。
「懐かしくて急にやってみたくなっただけよ」
フランスに行くことはないとおかあは言い張った。
ある日、私はこっそりと留学の資料を開き、おかあが十七年前に修業させてもらう予定だったお菓子屋さんに、メールを送ってみた。仏和辞典を駆使しながら、「母にもう一度チャンスをもらえないか」と、つたない文章を書いた。自分がどうしてここまでするのか分からない。でも、それが私達家族にとって必要なことだと直感でそう思った。
「翔ちゃんの焼き菓子、やっぱり絶品だねえ」
きつね色のりんごが載ったタルトタタンを頰張りながら、おとうの顔は淋しげだった。学生の頃によく作ってくれたのだそうだ。お腹に私が宿ったとき、留学できなくなることを申し訳なく思ったけれど、それよりも喜びの方が大きかったこと。4人で一緒に暮らす今が幸せであること。これからもずっとこういう日が続いてほしいこと。タルトタタンを食べながら、おとうはぽつりぽつりと思いを話した。
「あの頃みたいに、家でお菓子作りをするので十分いいと思うけどなあ」
なんて言うので、私と剣都は顔を見合わせてため息をついた。おとうの羽衣がおかあだというのはよく分かるけど、なんだかなあ。
街にジングルベルが流れる頃、フランス語の長い返信メールが届いた。それは、来春からの修業を認めるというものだった。私は飛び跳ねたけど、おとうを思うと頭が痛かった。
夕飯のとき、私はフランスのお菓子屋さんから返事が来たことを話した。
「なんで勝手にそんなことするの?」
「ごめん。でも、私はおかあにもう一回チャレンジしてほしいわけさ。おかあ、本当は行きたいんでしょう? そう顔に書いてあるさ」
「瑠璃は何も分かってない。十七年もブランクのある私が行ってもお店に迷惑がかかるだけなんだよ」
「でもね、メールには『あなたのおかあの夢に有効期限はない』と書かれてた。是非、来てほしいって」
おかあは、口を固く結んで俯 いた。そして、泣きそうな声で、
「でも……あなたたちを置いていくなんてできない」
と言った。
「僕らは案外平気だけどね。心配なのはおとうなんじゃない?」
剣都が呆然 としているおとうを横目で見ながら言った。おとうは、気まずそうに皿に残ったおかずを食べて、ソファに移動するとテレビをつけた。
春までの数ヶ月の間に、おかあはどんどんとお菓子作りの腕を上げた。朝、ソファで寝ていることもあり、おとうがそっとブランケットをかけてあげる光景は、今までの真逆で可笑 しかった。
二人があれから、フランス行きについて話し合ったのかどうかは知らない。だけど、朝ごはんは三人の中の誰かが作るようになったし、ある日、お弁当を開けると不思議な味付けの野菜炒めや、焼きそばが入っていたりして、おとうが作ってくれたんだと分かった。時間や距離や会話も大切だけど、こういうことで家族は満たされたりするのかもしれない。日々の重なりが染み込んだ味や記憶にこそ、その人が存在するのだろうと思ったりした。
最後の夜、私達四人は居間に布団を敷いて川の字になって寝た。思い浮かぶのは、子どもの頃の他愛もない話ばかりだ。ハチに刺され一時間泣きくれていた剣都の口に、私が飴玉を入れてやるとすぐに泣き止 んだ話や、肝試しでお化け役になったおかあが本物のお化けを見てしまったこと、お決まりの二人の学生時代の話も。
何回も聞いている話や、家族以外は絶対笑わないような話を繰り返した。同じ記憶を持つ人がいるということ。たとえ一人が忘れてしまっても、写真のデータが消えてしまっても、誰かの記憶には保存されている。それらは、遠く離れて会えなくてもきっとお守りになる。それぞれが、やがて一人になる時のために私達は一緒にいたんだ。
やがて、おとうのいびきが聞こえはじめる。
「ねえ、おかあ」
「なあに?」
「……ううん、呼んでみただけ」
「瑠璃……」
「おかあ……おかあ、おかあ」
私は、何万回と呼んだ名前を、ただ呼んでみた。
自分が言い出しっぺだったのに、明日からこの名前を呼べないと思うと、急に熱いものがこみ上げて、こめかみを伝った涙が髪を濡らした。隣で、剣都が洟 をすする音が聞こえる。網戸から、時折強い風が入って私達をなでていく。大地から春の息吹が湧き上がるのと同じように、体の奥底からも何か新しい力が芽生えるのを感じた。
「あなたが私の元にやってきたと分かった日も、こんな春の嵐だったのよ」
嬉しくて悔しくて怖くて、ぐちゃぐちゃの嵐のような感情を抱えたまま、若い二人は不安な夜を過ごしたんじゃないだろうか。
「ありがとう、おかあ」
「なんね、結婚前夜みたいに。これで最後じゃないんだからやめてよ。瑠璃は瑠璃の目標を見つけるんだよ。これは、私と瑠璃の競争なんだからね」
私のおかあは、やっぱりすごい。
「へぇー、じゃあ瑠璃がマーマーの羽衣だったってことかあ」
私の長い話を聞き終えたカオルは、夕焼け色のハンバーガーにかぶりつく。そう言われるとこそばゆいけど、きっとおかあは私達の島の天女だったんだ。
「いけない! 船の時間」
時計の短針は5を指している。
「だった、今日は私も乗るんだ!」
私達はドアを開けて、海に向かって走りだした。春風が二人の背中を押して、いつもより軽やかなステップだった。どこからか、焦がしバターの香ばしい匂いがした。
(了)
<本作品のモチーフにしたお話・文化>
「銘苅子」
<取材協力(敬称略)>
国立劇場おきなわ
沖縄市KOZAフィルムオフィス 山口諒
*この物語はフィクションです
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