次に目を開けたとき、直樹は混乱に陥った。
周囲の景色が一変していたからだった。
どういうわけか、そこは今の今まで直樹のいた工房ではなく、電車の中のようだった。職人も由香子も和人の姿も見当たらず、代わりにたくさんの知らない人たちの姿があった。
がたんごとんと揺られる中で、直樹は思う。
これって、市電……?
その推測は、座席や吊り革、窓の外の景色を見ているうちに確信へと変わっていく。
直樹がいるのは間違いなく、広島市内を走る路面電車──通称「市電」の車内だった。
なんでいきなりこんなところに……?
そのとき突然、声が聞こえた。
「ねぇ父さん、あとどんくらいで球場に着くん?」
直樹は無意識のうちに声がしたほうに顔を向けた。
自分の近くに、二人の少年と一人の少女が立っていた。
三人の顔に既視感を覚えつつ、直樹は意図せずこう口にしていた。
「もうちょっとよぉ」
「はよ試合が見たいわぁ」
そう言いながら、一番年上らしい少年がこちらに尋ねる。
「父さん、今日のカープは勝てるんかねぇ?」
少年の問いに、やはり直樹は意図せず返事をしてしまう。
「勝てるかどうかやない。勝つんじゃい」
もしかして、と直感したのはそのときだった。
この子供たちは、小さい頃のおれたちなのか……? 今のおれは、昔の父さんになってるっていうことか……?
ふいに、職人の言葉がよみがえる。
──依頼主の方の過ぎ去った月日を矢として具現化させたもの。それが、この光陰なんです。
直樹は悟る。
あの光陰という矢に触れたことで、自分は今、父さんにとっての過ぎ去った月日を追体験しているのだということを。
そのとき、車掌が両替の呼びかけをしにやってきた。みんなで端に寄って道を空けると、車掌は通り過ぎていく。
直樹の視界には、車掌を避けた拍子に周囲の光景が飛びこんできていた。周りには、広島カープの野球帽やユニフォームを着た人たちが乗っていた。
なるほど、過去の自分たちは今、市電に乗ってカープの応援に向かってるんだ──。
それが分かると、直樹は懐かしい気持ちがこみあげてきた。
直樹にとって、市電と言えば野球で、野球と言えば市電だった。今はなき広島市民球場に家族で試合の応援に行くときは、いつも決まって市電に乗っていたからだ。
「お父さん、今日は何時に終わるん?」
そんな少女の声が聞こえてきて、直樹は哲夫の動きに応じて視線を落とした。
声の主は由香子だった。
哲夫は由香子に何かを言おうと口を開きかけた。
が、それより先に、隣にいた直樹少年がこう言った。
「そんなん、勝つまでじゃろ」
「えー、はよ終わってくれたらええのに……」
「なんでじゃ」
「だって、見とってもつまらんもん。和人もそうじゃろ?」
話をふられて、少年の和人は由香子に言った。
「野球は好きじゃけど、球場にはあんま行きたくない……みんな声が大きいけぇ」
直樹少年は鼻で笑った。
「なんじゃ、それがええんよ。由香子は野球が分からんし、和人は怖がりやし、二人ともしょせんは子供やなぁ」
「うるさいっ!」
「兄ちゃんやって子供じゃん!」
騒ぎはじめた三人に、哲夫が横から口を挟んだ。
「ケンカはやめぇ!」
その強い口調に、三人の子供たちはびくっと反応して静かになった。
一連の様子を眺めながら、直樹は心の中で苦笑した。
今も昔も、自分たちきょうだいはなんにも変わってないなぁ、と。
その一方で、意表を突かれたこともあった。
流れこむように自然と伝わってきた、哲夫の気持ちについてのことだ。
哲夫から子供たちへの一喝は、有無を言わせないほど強くて荒々しいものだった。が、その口調とは裏腹に、どういうわけか哲夫にはこの状況を楽しんでいる気持ちもあるようだった。
三人の子供たちは気を取り直し、やがてアニメの話をしはじめる。
そのあいだも、哲夫の視線はずっと子供たちから離れない。
はしゃぐ三人のことを哲夫の視線で眺めながら、今の直樹はぼんやり思う。
広島市民球場がその役割を終えてからは、野球の試合は広島駅近くの新しいスタジアムで行われるようになった。それによって球場までの移動のルートは大きく変わり、市電に乗らずに球場に行ける人も多くなった。
でも、と直樹はこう想像せずにはいられない。
市電では、きっと今でも似たような家族のやり取りが繰り広げられているんだろうなぁ、と。
いつの間にか、目の前の三人の子供たちはアニメの話題でだんだんヒートアップしてきていた。
哲夫に見守られていることなどつゆ知らず、三人はまた小競り合いをしはじめる──。
そのとき突然、チャンネルが切り替わるように、見ている景色が急に替わった。
直樹の視界に飛びこんできたのは、カウンターに座って楽しげにビールを飲んでいる人たちだった。
別の場面に移ったってことなのか……?
戸惑いながらも、少し遅れて直樹はカウンターに設置された鉄板の存在に気がついた。その上で焼かれているものを見て、直樹は心の中で声をあげた。
お好み焼き屋か!
次の瞬間、直樹は哲夫の声でこう口にしていた。
「予約のもんを取りに来たんじゃが」
「もうちょいでできるけぇ、適当に座って待っといてくれぇや」
カウンターの中でそう答えた人の顔を見て、あっ、と思った。その人は、実家近くのお好み焼き屋「なかがわ」の店主だった。
直樹の中で、思い出が一気によみがえる。
仕事で遅くなった日の哲夫は、よく「なかがわ」のお好み焼きを買って帰ってきてくれていた。直樹たち子供は肉玉そばを、哲夫は肉玉うどんを注文するのが定番だった。
ちょうどそのとき、直樹の前で別の客が頼んだお好み焼きが作られはじめた。
直樹は哲夫の視線を借りて、その様子をまじまじ見つめる。
店主は最初に鉄板の上に生地を広げて、鰹節と大量のキャベツをさっとのせた。そこにもやしと天かす、豚肉をのせて、二本のヘラでひっくり返して蒸し焼きにする。しばらくすると店主は近くにそばを広げ、慣れた手つきで生地を丸ごとその上に移す。火が十分に通ったところで、今度は軽くのばした卵の上に生地をさっと移動させる。
そうして生地をひっくり返すと、店主はソースをたっぷり塗った。最後に青のりを全体にまぶし、お好み焼きは客に出された。
お腹が鳴りそうな気分になりつつ、直樹は思う。
広島のお好み焼きも、もうずいぶん食べてないな──。
やがて哲夫は店主に声をかけられて、四枚のお好み焼きを受け取った。
家に帰ると、三人の子供たちが集まってくる。
「この匂い、お好み焼きやっ!」
直樹少年が歓喜すると、由香子も声を弾ませた。
「やった! でも、お父さん、なんで笑っとん?」
和人も気がつく。
「あっ、ほんとや。お父さん、笑っとる」
「笑てないわ。どうでもええこと言うとらんと、冷めんうちに、はよぉ食うぞ」
直樹少年が声をあげたのは、みんなで食べはじめた直後だった。
「あれ? これ、なんか入っとる? あっ! エビや!」
由香子と和人も同じく叫ぶ。
「イカも入っとる!」
「モチもや! これ、肉玉やない!」
直樹少年が哲夫に尋ねた。
「もしかして、このお好み焼きって、スペシャル!?」
うなずく哲夫に、直樹は言う。
「すげぇ! なんで!?」
「まあ、たまにはな」
「あっ、そんでさっき笑っとったんか!」
指摘をしたのは由香子だった。
「スペシャルなんを私らに隠しとったけぇ、お父さん笑っとったんや!」
しかし、哲夫はかたくなに認めなかった。
「笑ろてないと言うとるやろ」
「ふーん、まあええか」
由香子はたちまち興味を失い、特別なお好み焼きを頬張ることに夢中になる。
そんな中、いまの直樹にはやはり自然と哲夫の思いが伝わってきていた。
最近の直樹少年は、サッカークラブでレギュラーに抜擢された。由香子は書道コンクールで入選し、和人は逆上がりができるようになった。
哲夫は子供たちの成長がうれしくて、ささやかなお祝いをしたかったのだ。
が、そんな気持ちは微塵も出さず、哲夫は黙々と食事をする。
「もうなくなった! 足りんっ! なあ、ちょっと分けてぇや」
直樹少年は、素早い動作で由香子と和人のお好み焼きから具材をくすねた。
「私のイカ!」
「ぼくのモチ!」
「へっへぇー、うまいぃっ!」
哲夫はやれやれと呆れ返る。そして、いつものようにケンカがはじまる前に、自分のお好み焼きから具材を取りだし由香子と和人の器に移した。
「騒いどらんと、これでも食うとれ」
それを目にして、直樹少年は抗議した。
「うわっ! 二人だけずるい!」
「なに言うとんじゃ。おまえは由香子と和人のやつを勝手に食うたんやろうが」
ふくれっ面の直樹少年をからかうように、由香子と和人が「あっかんべぇ」と舌を出す──。