翌日から、わたしたちの猛特訓がはじまった。
総おどりでは二種類の楽曲が使用される。一つは普通のおてもやん。そしてもう一つは―
「改めて聞くと……すごい陽気な曲だよね、サンバおてもやんって」
そう。もう一つは、サンバおてもやん。正調おてもやんも曲調は陽気だけれど、こっちの陽気さはわけが違う。ピーピーヒョロヒョロと響く異国感漂う楽器の音。一体何がどうなって「おてもやんをサンバ調にしよう!」と決まったのだろう。
練習場所は、校舎の端の端の方にある人目につかない空き教室を選んだ。使われなくなった古い机や椅子が乱雑に置かれたその場所はあまりにも埃 っぽい上に、冷房がないので蒸し暑くてしょうがないが、背に腹は代えられない。ボロボロのカーテンを端で括 り、窓を開け放ち、机や椅子を教室の後ろまでえいさほいさと運び終わると、スカートが汚れるのもおかまいなしに冷たいタイルの床にぺたんと腰を下ろした。窓の外からは、わんわんとやかましいくらいに蝉 の声が響いている。
「えーと、最初は四回手拍子。胸の前で拳を作って前に進んで、四歩目で左足を上げる。で、そのまま両手を上に……あっ、これ、駅にあったおてもやん像のポーズたい!」
ネットに上がっている振り付け動画を参考に、すみちゃんがスッと立ち上がり、見よう見まねで踊りだす。するとなんと、昨日見た銅像と同じポーズになった。なるほど、あの像はこの振り付けのポーズをしていたのか。
「今の動きを四回繰り返したら、今度は両手を頭の上で左右に六回振る……なんだ、けっこう簡単たい。ほら、向日葵もやろ!」
「よしきた!」
いち、にい、さん、し。
にい、にい、さん、し。
さん、にい、さん、し。
よん、にい、さん、し。
スマホを床に置いて、その周りを二人してくるくると踊りだす。たん、たん、たん、とぎこちない足取りで。
「二回手拍子をしたら、右足を斜め前に出して、両手を顔の横でパッ! と広げる……戻して、今度は左足を前にして、また両手をパッ……で、また最初に戻る……向日葵、そこ手と足逆じゃない?」
「えっ!? あ、そっか!」
窓の外からは、サッカー部がボールをけり上げる音が聞こえてくる。誰かがシュートを決めたのだろう、「ナイッシュー!」という歓声がグラウンドにこだました。昨日に引き続き、吹奏楽部のなんともいえない演奏が校舎中に響き渡っているし、ランニングをする陸上部の「ファイ、オーッ、ファイ、オーッ」という掛け声も聞こえてくる。
そんな声や音に負けないくらいの音量で、この狭い教室いっぱいに、おてもやんの音楽が響いている。
♪川端町っつぁん きゃぁめぐろ
春日ぼうぶらどんたちゃ
尻ひっぴゃぁて
花盛り花盛り
ピーチクパーチク雲雀 の子
げんばく茄子 のいがいがどん
「お前たち、何ば騒いどるとやー」
思いのほか熱中し、尚且 つ大音量で音楽を流していたせいで、わたしたちは自分たちの姿がまさか人に見られているだなんて夢にも思わなかった。教室の後ろの扉から顔だけを覗かせ、怪訝 そうにこちらを見るのは、生徒指導の岡崎先生だった。たぶん、校舎の見回りをしていたのだろう。
わたしは、両手をめいっぱい上にあげ、片足立ち姿勢の、傍 から見たらきっとものすごくご機嫌な奴に見えるであろうポーズのまま、それでもせいいっぱい真顔を貫いて口を開いた。
「ひ、暇を持て余した女子高生の戯れってやつです」
「……そがんかー。あまり遅くならんうちに帰るとぞー」
「……ハイ」
哀れむような眼差しがわたしを真っすぐに見つめ、「邪魔したね」と言ったのち、パタンと扉を閉めて去ってゆく。室内には相変わらず、陽気なおてもやんが大音量で、しかしどこかむなしく響いている。ややあって、「ぷっ」と噴き出して笑う声が聞こえてきた。
「ぶ……ふふ、ふふふ、あはははは!」
「ちょっと、すみちゃん! 一人だけすぐやめてずるいっ! めちゃくちゃ恥ずかしかったんだけど! 見た!? あの可哀そうなものを見る目!」
「あははは! ご、ごめんごめん。ふふ……でも、向日葵、ごまかし方超不自然で……あはは!」
「笑いごとじゃないけん!」
音楽を止め、二人してわあわあと騒ぐ。その日の練習は結局、そんなかんじでぐだぐだと終わった。
しかし、次の日も、その次の日も、夏休みに入っても尚、わたしたちは練習を続けた。何かやることがあるのだというだけで、わたしはなんだかちょっと嬉しかった。
「サンバおてもやんは、動きが結構派手だね」
先生に許可を貰 って足を踏み入れた、夏休み中の空き教室で、すみちゃんが真剣な顔をして言った。そしてそのまま、その真剣な表情で踊りだす。肩や腰をくねくね動かして、両手を陽気にゆらゆら揺らして……。
「ぶふふ……ッねえすみちゃん、真顔で踊るのやめてくれん」
「…………」
「あははは! ねえ、やめてて!」
大きな黒縁眼鏡をかけた、いかにも真面目そうな風貌のすみちゃんが、真顔でサンバおてもやんを踊りながらじりじりとこちらに近づいてくる。ずるい。おもしろすぎる。絶対わざとだ。
「って、向日葵も笑ってないで練習せんね!」
「はいはい」
いちにいさんし、ごおろくしちはち。
にいにいさんし、ごおろくしちはち。
学年カラーである、黄色のゴムで縁どられた上履きで床を叩 くたび、たん、たん、たん、と乾いた音が教室内に響く。
振り付けは完璧に覚えたけれど、賞をとりたいのなら特別目を引く何かが必要になってくるだろう。私が小さい頃に見た着物姿のお姉さんたちみたいに、思わず見惚 れるような姿に変身するか、あるいは……。
なんて、うんうん考えながらひらりひらりと踊っていると、教室の扉がまたも開かれた。
びっくりして目を見開くと、そこには相変わらずのジャージ姿の岡崎先生が立っていた。反射的に、怒られるんじゃないかと身構えてしまったが、どうやらそうではないようだ。それどころか先生は、両手に持っていたサイダーの缶を私たちに差し出してきた。
「差し入れたい。暑かけん水分はきちんととらんといかんよー」
「えっ……あ、ありがとうございます!」
「他の奴らには内緒だけんね」
すみちゃんと一緒にぺこんと頭を下げ、サイダーを受け取る。手に取るとひんやり冷たく気持ち良い。一階の自販機で売っている、レモン風味のやつだったので、わたしたちはパッと顔をほころばせた。何を隠そう、わたしたちはこのサイダーが大好きだ。よく二人でお金を出し合い、体育の授業の後とかに買っては回し飲みしている。
「あの、でも、なんで?」
すみちゃんが、おそるおそるといった顔で問いかける。それに対し岡崎先生は、ちょっと照れくさそうにしながら、
「あー……おてもやん総おどりに出るとだろ。実は先生も大学時代、出たことがあるとたいね。同じ陸上サークルの仲間内で。……まあ、だけん、なんだ。懐かしくてね。これも他の奴らには内緒にしとってね」
と、言った。
いつも仏頂面で、生徒たちに恐れられている岡崎先生。今まで苦手にすら思っていたけれど、今の話を聞いて、なんかちょっと親近感がわいた。多分、すみちゃんも同じ気持ちだったのだろう。その勢いのまま、わたしは思い切って、「あの」と口を開いた。
「先生」
「なんだ」
「おてもやんって、結局、どがん意味の歌なんですか? ネットであれこれ調べてはみたけど、なんかよくわからんくて」
「まあ、だいぶ昔の歌だけんね。……実は先生も、意味まではよぉ知らん」
「え、そうなんですか。総おどりに出たのに?」
「正直、最初はふざけ半分というか……仲間内のノリで出場を申し込んだったい。でも、授業やサークルの合間にこの曲流しながら練習をはじめたら、これが結構楽しかったったいね。今じゃみんなすっかり大人になって、それぞれの人生を歩み始めたけど、それでも当時のメンバーで集まるときは必ず話題に上がるってくらい、よか思い出になっとるとよ」
「へえ……」
「そがん意味が気になるとなら、自分たちでもっと詳しく調べるとよかたい。そうだ、レポートにして県の自由研究コンクールに出さんね。確か募集は八月いっぱいまで大丈夫だったはずだけん……」
「わーっ、いいですいいです、大丈夫です!」
自主的にレポートを書くなんてたまったもんじゃない。大慌てで言葉を遮ると、岡崎先生は今度は白い歯を見せてにやっと笑い、「まあ、頑張んなっせ」と言ったのち、顧問であるバスケ部の練習へと去って行った。
先生がいなくなった後、わたしたちは二人してしばらく黙り込んだ。わたしたちは昔からそうなのだ。喋りたいタイミングも、静かにしていたいタイミングも、なんとなく似ている。
「練習、続けよっか」
やがてすみちゃんの方が先に口を開き、それに対してわたしは「うん」と短く返事をして、練習動画の再生ボタンを押した。
総おどり本番の三日前、アーケード通りで買い物をして、熊本城の近くをすみちゃんと二人で歩いていると、見知った顔を見つけた。わたしたちが「あっ」と声を出すより先に、その人物はこちらに気が付くと、心から嬉しそうな表情を浮かべて寄ってきた。
「ひまちゃん、すみちゃん!」
「麦ちゃん。なんしよると?」
麦ちゃんは、オーバーサイズのTシャツにハーフパンツ、それにやけにごつごつしたスニーカーというボーイッシュな格好をして、首からはカメラを下げていた。
「写真を撮っとったと。ほら、見て、熊本城。よく撮れとるでしょ」
写真には、再建中の熊本城が写っていた。大小ある天守も、お城を守るように高くそびえる石垣も、春にはきれいな花を咲かせる桜の木々も、みんな夕暮れの茜 色に染められて、なんとも幻想的だ。工事用の重機がいくつか一緒に写りこんでいるが、逆光で赤黒く染まったそれらはお城の一部のように見えて、元々大きなお城が更に大きく見えるようだ。
「わっ、きれい! これもインスタにあげると?」
「うん!」
すみちゃんの問いかけに、麦ちゃんはにこにこ嬉しそうに笑って返す。自信と希望に満ちたその表情。わたしはなんだかむずむずとしながら、「ね、ねえ、あんね」とはじめて口を開いた。自分の声が情けなく震えているということに気が付いて、ちょっと笑えた。
「麦ちゃんは、やっぱり、写真家になると?」
「え? うん、そうなれたらよかねーって思っとるよ。あはは、なんか恥ずかしかね」
「そっか……すごかね。じゃあ、卒業したら東京へ行くって噂は本当なんだ」
「えっ? なんそれ」
「え?」
「東京とか行かんよ! やだもう、それどこ情報!?」
本当に焦ったような声色 で、麦ちゃんはそう言った。思わず、ぽかんと口を開いてしまう。
「あたし、熊本が大好きとたい。だけんまあ、ずっとかどうかはわからんけど、でも当面はここにいるつもり。写真を撮ってネットにあげてるのは、あたしが大好きなこの町を、もっともっと、もーっとたくさんの人に知ってほしいとたいね」
その言葉は、あまりにも真っすぐだった。わたしは圧倒されてしまい、言葉を失った。横を見ると、すみちゃんもびっくり顔のまま固まっている。
「あたし、高森の方におばあちゃんが住んどってさ。昔はよく、南阿蘇鉄道を使って遊びに行っとったったいね。春になると天国みたいに菜の花が咲いて、陸橋から見下ろす切り立った崖や林はぞうっとするほどきれいでさ。あの景色が大好きだったとたいね。……でも、地震で陸橋が崩れて、鉄道が走れんくなって。たいがショックだったったとよね」
麦ちゃんは言った。
「それから、おばあちゃんに会いに行く時は、しばらくは車を使っとったんだけど……ある時、思ったの。こがんことになるのなら、大好きな景色をもっとたくさん写真に収めておけばよかったって。そしてそして、またある時こう思ったの。待てよ……? それ、今からでも遅くなくない!? ……ってね!」
あはは、と明るい笑い声。わたしはなんだか胸がじんとしてしまい、「そっか」としか言えなかった。
麦ちゃんに対して、勝手に羨望 の眼差しを向けて卑屈になっていたけれど、そんなのはばからしいことだったのかもしれない。うん。それがわかって、なんだかちょっと、爽やかな気分だ。
「二人とも、火の国まつりには行くと?」
お城の近くの城彩苑や花畑広場では、少しずつだが縁日の準備がされている。そういう風景をちらっと見ながら、麦ちゃんはわたしたちにそう聞いた。
「うん、そのつもり」
「そっか! あたしも行くけん、当日、会えたらいいね」
そこで麦ちゃんは、「あっ、いけない。あたし、熊本駅でママと待ち合わせしとるとだった」と言い、「じゃあまたね!」と元気に手を振って、嵐のように去って行った。
「麦ちゃん、やっぱりすごかね」
細い背中を見送りながら、すみちゃんが小さな声で呟く。それに対して、わたしは今度こそ、
「うん、そうだね。すごかー」
と。素直に言えた。
その夜、わたしは麦ちゃんのインスタを探し、投稿された写真の数々を眺めた。
南阿蘇鉄道のトロッコ列車から手を振る、満面の笑みを浮かべた人々。月廻 り公園で青々茂る草花と、呑気な顔で草を食 むヤギ。「がんばるばい熊本」の幕が掲げられた阿蘇神社と、その近くにある一の宮門前町商店街――五月頃の写真なのか、晴天の空に鯉 のぼりが悠々と泳いでいる。ぼんやりとオレンジ色に光る街路灯の立ち並ぶ、夜の黒川温泉や、輝くような海の上にすらりと延びる天草五橋――。
そうやって、麦ちゃんが写すきらびやかな熊本の景色の数々を眺めていると、段々眠たくなってきて、わたしはいつの間にか意識を手放した。
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