夕方、運動会が終わって、おとうとおかあが先に帰ってきた。
「それにしても剣都、走るの速くなっててびっくりしちゃった」
「な、去年より一つ順位上げてたもんな。あの子はがんばり屋だよ。大したもんさ」
四等の息子を褒め続ける二人は心底幸せそうだった。ひとしきり剣都の活躍ぶりを私に伝えると、涼しくなったから畑に行ってくると、作業着に着替えておとうが出ていった。一緒に行こうかと言うおかあに、疲れただろうから家で休んでいてくれと網戸を閉めた。
どら焼きやケーキを半分こする時、おとうは必ず大きい方をおかあに渡したし、焼き肉では一番におかあの皿に肉を入れてあげた。そんなおとうだから、私達はこの家が好きだった。
リズムよく野菜を刻む音、米を研ぐ後ろ姿。目の前にいる女性は私の“母”だけれど、それは私と出会った十七年前に付いた呼び名だった。それより前、母になる前のおかあは、どんな人だったのだろうか。美人で、控えめだけど頑固で、料理が得意で、気立てが良く、東京育ちで、それから、それから……。私は山脇翔子の何を知っているのだろう。
二人は高校卒業後それぞれ別の沖縄の学校に進学し、しばらくして私を身ごもったおかあは退学したと聞いたことがあった。私が生まれたせいでおかあの人生が台無しになったのではないかと思う隙がないほど、おかあはいつも幸せそうだった。おとうの農業を支えながら、家事をこなし、いつも朗らかに笑っていてくれた。だけど、もう一つ大切なことがあったとしたら……。
私は、ポケットから封筒を取り出し、テーブルの上に置いた。
「今日ね、ガレージの片付けしてたら、こんなの見つけてしまったさ」
おかあはエプロンで手を拭くと、私の横へやってきてテーブルの上の封筒に手を伸ばした。ガレージに押し込まれた記憶が、今、一斉に押し寄せているようだった。おかあはしばらく航空券を見つめていたが、明るい表情を作って言った。
「あいっ、よく見つけたねえ。そろそろガレージの整理しないとねぇ。昔のもの全部そのまま入れっぱなしだったから。これも、もう捨てていいのよ」
「おかあ、フランスに行く予定だったの?」
「随分昔にね。私、高校を卒業したあと製菓学校に通っていたのよ。それで、パリのお菓子屋さんで見習いさせてもらうことになってたの」
初めて聞く話だった。
「フランス行けなかったこと後悔してない?」
「するはずないじゃない。瑠璃が生まれてきてくれてどんなに嬉 しかったか」
「うん。でも……おかあがやりたかったこと、もう一回やってみてもいいんじゃないかなって考えてたわけさ」
「今、私は、十分やりたいことをやっています」
結婚式の誓いの言葉のように、おかあはゆっくり私の目を見ながら言った。噓じゃないのはわかっている。だけど、きつく閉じた蓋 が錆 びてしまって、出られなくなった思いがあるんじゃないのか。
「いつも私に好きなように生きなさいって、やりたいことをやってみなさいって言うじゃない。だったら、おかあももう一回チャレンジしてみるべきだよ」
「何言ってるのよ。瑠璃とは年齢も状況も違うでしょ?」
「違うけど、違わない。私達はもうそんなに子どもじゃない。自分の道は自分で決める。だからおかあも、これからは自分のために生きてほしいんだ。今度は、私がおかあを応援したいんだよ」
「もう、何言ってんのよ。まだ進路も決まってない子がよく言うわ〜」
おかあはそう言ってまたはぐらかして、夕飯の支度に戻った。
翌日、振替休日になった剣都は、珍しくまだ寝ているらしかった。おかあは、いつも通り朝から豪快にゴーヤーチャンプルや特大のポークたまごのおにぎりを作ってテーブルに並べた。昨日の航空券のことはまるで夢だったみたいに。私はおにぎりを頰張ると、港へ自転車を走らせた。
朝のホームルームで、佐野っちが今年の「組踊」はリモートになったと言った。修学旅行も学園祭もなくなったし、もはや驚きもしなかった。観賞用資料が配られ、リモート配信時の注意点が告げられる。
私の高校では、沖縄の伝統芸能である「組踊」を国立劇場に見に行くことが、毎年の秋の恒例行事になっている。組踊とは、沖縄が琉球王国だった時代に明や清の皇帝の使者にお披露目していた芸能で、外交の要素も兼ねていたそうだ。
休み時間になり、メイクをするカオルの隣に腰掛ける。
「私、組踊見てたらいつも眠くなっちゃうさ。今年リモートでしかも家で見るんでしょう? 寝落ちしちゃいそうだなー」
「私は楽しみにしてたから劇場に行けないの残念だな」
「えらいなー。瑠璃みたいな子が伝統芸能とか支えていけるんだよきっと。どこにそんなに惹かれるの?」
「うーん、なんだろう。私、ミュージカルとか演劇とか、リアクションの大きい感じがちょっと苦手なんだけど、組踊は、心情を動作や表情には出さない代わりに音楽で表してるのが格好いいのさ。琉球王朝の士族が演じてきてたからクールなんだ。その秘めた美しさとか優雅さみたいなのが、いいなって思うさね」
「でーじすごい! あんた詳しすぎるでしょ」
カオルは珍しいものを見るように私を眺めた。
「えー。去年の公演のときに劇場の人が話してくれたさー。組踊は『聴くもの』だって」
「そんなこと言ってた? 瑠璃は逸材やっさー。そっちの道に進んだら?」
カオルはまつ毛を上げながら言った。
伝統芸能に携わる人の後継者不足は、どの地域でも深刻だと去年劇場の方に聞いた。確かに興味はあるし素敵だけど、だからといって簡単に入れる世界ではないだろう。カオルが言うように私が仮に逸材だとして、それと才能とは比例しないもの。それに、伝統芸能で食べていけるようになるまで一体どのくらいかかるんだろう。「好きを追っていけば夢になるわよ」って佐野っちが言ってたけど、容易 い世界でないことは想像がつく。
「瑠璃、遅れるよ。行こう」
気がつくと、みんな理科室に移動しはじめていた。カオルの隣を同じ歩幅で歩く。この廊下がずっと続けばいいのに。
同じ教科書を持ち、同じ服を着て、同じ髪型で、同じ部屋に移動することの安心感と違和感。あと一年半後にはそれぞれ別の道に進むのに私達はみんな同じだ。同じでないと不安で、同じことが不満で、自分でも自分が分からなかった。
学校からの帰り道、いつものA&Wのいつもの席に座っていつものを頼む。
「ちょっとだけ瑠璃にもメイクしてあげるよ」
カオルはメイクポーチからピンク色のチークを取り出す。切れ長の綺麗な目が私をじっと見つめて、ひんやりしたカオルの手が頰に触れる。私の心臓は波打って、これが憧れでも恋でも、どちらでもいいと思った。好きだということに変わりはないのだから。
「ほら、鏡見てみ。瑠璃はピンク色が似合うんだよ。これ、使ってないからあげる。はけがなくても、指先で塗ればいいから」
カオルは、五百円玉くらいの丸いチークを私の手のひらに載せた。
また船の時間になって、最後のポテトを食べながら海へ走る。こんな日を、いつか私もガレージの隅に押し込まなければならなくなるのだろうか。
制服姿のおとうとおかあが、同じように海に向かって走っている姿が目の前に見えた。それは、ずっと遠い昔の話ではなくて、クラスのざわめきの中に存在する私やカオルと変わりなかった。建物や服装は変わっても、空や海やむんとした風や、どこにでも行けそうで行けない気だるい足取りは私達と同じなのかもしれない。
帰ると、ガレージの前に開いたダンボールが並べられて、その真ん中に軍手をしたおかあが座っている。懐かしそうに、愛おしそうにノートやレシピ本をめくっては、ときどきくすっと笑ったりして。その横顔は、十七年前、留学が決まった頃に戻ったようにキラキラしていた。おかあは留学用の水色のファイルを開き、長いこと眺めていた。そして、「ありがとね」と呟くと、ファイルを閉じた。私は、声をかけられなくて、しばらくその姿を見つめていた。
「あれ。瑠璃、おかえりー。やだ、もうそんな時間なんだね。夕飯の支度しなきゃ」
私に気づいたおかあは、資料を他の本の上に積み上げると、慌てて立ち上がった。
「これも捨てちゃうの?」
「うん、もう必要ないからさ」
もし同じクラスにいたら、私はきっと山脇翔子と友達になっただろう。そして留学を応援したのだろう。
「ねえ、やっぱり、おかあの夢を今から叶えるわけにはいかないのかな?」
「またそんなこと言ってー。もうその話はいいのよ」
「良くないよ。だって、今あんなに大切そうに見てたじゃない」
「時が経ったの。もうどうしようもないのよ……」
苦虫を嚙 み潰したような顔をして、おかあは夕飯の支度をしに家に入った。私はそっと、水色のファイルを本の束から引き出した。
夜、リビングのテレビにパソコンを繫ぎ、リモートで組踊の『銘苅子 』を見た。
「銘苅子ってなんかおとうそっくりだね」
と、剣都が笑う。
「そりゃあ一目惚れはしましたけども、僕は羽衣を隠したりしてないさー」
おとうが剣都をこづく。
泉で水浴びをしていた天女をひと目で気に入った農夫の銘苅子は、天女と結婚するために、羽衣を取り上げ隠すのだった。天に帰れなくなった天女は嘆き悲しむが、やがて銘苅子と夫婦になり二人の子どもを産み、母親、妻として生きる。しかし、ある日、娘が蔵の中で羽衣を見つけてしまう。羽衣を手にした母親は天に帰ると告げる。
子どもらと何度も別れの歌を歌いあい、天に登るシーンを見ながら、おかあが目元をティッシュで押さえた。
組踊のリモート配信が終わり、静かになったリビングで、私は意を決して喋りだした。
「おかあの羽衣をね、私見つけてしまったんだよ」
きょとんとしている男達に、これまでの経緯を話した。おとうは黙りこくっている。
「瑠璃ったらね、今からフランス留学してみたらって言うのよ。でもまさか母親が中学生と高校生の子ども置いて海外に行けるわけないでしょう」
おとうは苦笑いを浮かべながら、相槌 を打つだけだ。
「違うよ。母親は一旦お休みして、山脇翔子として行くんだよ」
私は真剣だった。
「そもそも無理な話なのよ。だって十七年前の事なんだから」
「無理かもしれないけど、もう一回修業させてもらう予定だったお菓子屋さんに聞いてみるくらいはやってみてもいいんじゃないの? 失敗してもやってみなきゃ分かんないでしょう? ねえ、おとう。夢はでっかくなんでしょ?」
黙っていたおとうがやっと口を開いた。
「でも、あんまり現実的じゃないっていうか。このご時世にビザが下りるとは思えないし……それに翔ちゃんがいないのなんて想像できない。僕は……嫌だな」
小さな声でそれだけ言った。
「大丈夫よ、いまさら留学って年でもないさ。もうちょっと若ければね〜」
おかあが冗談っぽく口を尖 らせる。
「でもね、夢に年なんて関係ないと思うってば。止まったままの夢があるなら、私は今からでも挑戦してほしいわけさ」
「ねーねー、たまにはいいこと言うやっし」
剣都がぼそっと言った。そりゃあ、おかあがいなくなった後のことを考えると大変なのは想像できるし心配なこともたくさんあるけど、それでも私は背中を押したい。そのために私達家族は一緒にいるんじゃないか。