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あの頃と変わらない景色、そして古くて大きなこの家が私を迎え入れてくれた。東京で暮らしていた部屋に比べるとその広さは実に3倍以上になる。元々家財道具などが少ないこともあって、持ってきた家具の全てを配置したものの、まだかなりがらんとしている。これからこの家に合わせた家具をひとつずつ買い集めていくことが、今の私の一番の楽しみだ。新しく塗ってもらった漆喰の壁の質感もとても気に入っている。水回りなど諸々のリノベーションも終わって、残すは土間の工事だけだ。
荷解きも一段落したところで私は昔暮らした家を訪れた。内見の際にも一度ここは訪れていたのだが、現在は空き家になっていて、随分と古めかしく、場所によってはだいぶ朽ち果てていた。駐車場などは大家であるお隣さんの荷物置きに使われている。かつて母が手入れしていた庭部分は更地になって、梅の木の姿もなく所々に雑草が生えているだけだった。人が住まなくなった家というのは驚くほどのスピードで老けこんでゆくのだと不動産屋でも話を聞いた。
隣の家のおばあちゃんが庭仕事をしていたので思わず声をかけた。
「こんにちは。あの、実は私20年以上前にここに住んでて……」
覚えていてくれているか不安もあったけれど、おばあちゃんは
「あなた、あの時の女の子かい! 大きくなったねえ!」
驚きと喜びの入り混じった笑顔で答えてくれた。すぐに家の中にいたおじいちゃんも引っ張り出して、私の知らなかった昔の話をいろいろ聞かせてくれた。父のこと。母のこと。私が生まれた頃のこと。正直なところ、自分は当時のふたりの顔は覚えていなかったけれど、昔の自分を知っている人と出会い直すことはとても新鮮だった。
「毎朝3人で手を繋いで散歩してたねえ。庭の手入れも夫婦でいつも楽しそうにやっとった」
「お父さんもよくあなたを肩車して散歩に行ったり、花だの虫だの、よく一緒に取りに行っていたよ。たんぽぽの綿毛があれば、お父さんがとってきてあなたがふーっと吹いて」
なんとか昔の記憶をたぐり寄せようとするのだが、父のそんな姿を全く思い出すことができない。
「あの、ここに生えていた梅の木は?」
「ああ、あの梅の木ね。あなたたちが引っ越した後、葉がつかなくなって。結局数年後に切ってしまったんだよ。悪かったねえ。あなたのお父さんとお母さん、毎年梅の実を楽しみにしていたものね」
「いえ、とんでもない。そうだったんですね」
私は母が亡くなってしまったことも話した。
「そりゃあ辛かったねえ……」
「いえ、もう10年以上も前なんで全然」
いつでも遊びにきなさいと、ふたりは畑でとれた野菜をたくさんビニール袋に詰めて渡してくれた。
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今日はこれから我が家のリノベーション、最後の箇所となる土間の改修工事。工務店さんと相談して三和土(たたき)と言われる土間に仕上がる予定だ。
主に土、消石灰、にがりを混ぜ、叩き固める工法で3種類の材料をバランスよく混ぜるので三和土というらしく、「自然のコンクリート」と例えられることもあるらしい。経年変化も魅力で、使い込むほどに踏み固められて味わいが増してくるそうだ。その伝統的な手法にも興味があるし、手伝えば工賃も少し安くなるということもあり、施工の際には私もスタッフとして加わることになった。
セメントやモルタルを使えばもっと安く済ませられるのだが、三和土の話を工務店さんに聞いて、私はこちらを選んだ。お金も手間もかかるけれど、この場所に越してきて、どこかしら「この土地の土と繋がっていたい」と思って決めたのだった。冬には地熱を蓄熱して暖かく、夏にはひんやりと涼しくなるという点にも惹かれていた。
大きな鉄の壺のようなミキサーに土と消石灰を入れて混ぜ、良きタイミングでにがりをじょうろで注ぎ、さらに混ぜていく。見た目は乾燥してぱらぱらとしているのだが、ぎゅっと握ると固まる。これくらいの塩梅がちょうどいいらしい。混ぜ合わせた土を一輪車に乗せて、玄関先まで運んでいく。まずは土間の敷地にまんべんなく広げて、板で軽くならす。そして各自が取っ手のついた鏝(こて)のようなものを持って、端から叩き締めていく。
工務店から親方とふたりの職人さん、不動産屋の担当さん、そして彼が声をかけてくれた近所に住む30代半ばのご夫婦も「手伝うよ!」と集まってくれた。半年ほど前にこの街に移住してきたという。私を入れた総勢7名で我が家の土間を仕上げていくことに。
皆で「たんたん」と音を立てながら土を叩き固めていく。無心で手を動かしているうちに、どれほど時間が経ったのだろう。全然違う音のはずなのに、私はなぜか部活が終わって家に帰り、台所で料理をする母を時々手伝いながら毎日その日あったことを話していた時の、あの音たちを思い出していた。母の声、まな板で野菜を切る音、煮物の鍋の音、窓の外から聞こえる音、それらの音がいつも心地よかった。
私は土間の土を板切れで叩きながら、いつの間にか自分が泣いていることに気づいた。叩き固めた土の上にぽたぽたと涙がこぼれている。
「お母さん、私ね、ずっと寂しかったみたい」
母を亡くした悲しさに向き合うことができず、思い出に蓋をして、そこから目を逸らしてきた。仕事人間だった父のせいにして、母との思い出を語り合える唯一の人を、私は遠ざけて生きてきた。
私はずっと土を叩いた。土の表面に、こぼれた涙がじんわりと染み込んでいく。ひとつひとつ音が響くたび、我慢してきた歳月が弾けていく。
みんな一生懸命に土を叩いているので、誰も私が泣いていることになんか気がつかない。なんだかそれも嬉しかった。
しばらくして「随分熱心だね。しっかり固まって良い土間になるよ。この仕事向いてるかもね」と職人の親方が声をかけてくれた。
私は慌てて袖で目元をぬぐい「ありがとうございます」と笑顔で答えた。
「良かったら今度、職場にも遊びにきてくださいね」若い職人さんたちも声をかけてくれた。
私は漆喰の壁を施工してもらった時のことを思い出し
「三和土土間と一緒に漆喰も勉強できますか?」と質問した。
彼らの無駄のない手捌きで仕上げられていった美しい壁をとても気に入っていたからだった。
「漆喰に興味あるんですか? そういえば壁の仕上げの時、随分熱心に見てましたもんね」
「いつでもバイトも募集中ですよ。まあまあしんどいけど」もうひとりの職人さんも鏝を片手に笑いながら話してくれた。
随分と時間はかかったが、みっしりと叩き締められた土間の肌はとても滑らかで静かな佇まいをしていた。色は全くの土色だけど、暮らしの始まりを描く、新しいキャンバスのようにも見えた。ぎゅっと踏み締めて、ここから新たな日々を重ねていけますように。
手伝ってくれた皆さんにお礼を言って別れ、ひとりになった後もう一度、土間に手を置いた。ひんやりとした冷たさが心地よく、私は少しの間、目を閉じた。
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いま私は週4日の時短勤務でリモートワークをしている。副業も奨励している会社なので、週2日ほど親方の下で働いてみようかなと思っている。これまでずっとデスクワークでPCを見つめてばかりだったが、体を動かし、ものを作っていくこの仕事に魅力を感じている。
壊れたら終わりではなく、直しながら長い歳月を共にする事ができる三和土や漆喰といった昔からの技法も学んでみたいと思った。自然由来の素材を使い、ゴミも出ず、家が朽ちたら土に帰っていく。この家を買ったことで、思いがけず新たな興味を持つことができた。
月曜日、毎週定例のオンライン会議ではチームのみんなが我が家の改修状況を楽しみにしてくれていて、いつも出来上がった壁や土間の様子などをシェアしていた。
「今日は白い花ね」
ダイニングに飾っていた花瓶の花に上司が気づいて言った。最近、散歩の途中や庭先でぱちんと一輪切って家に飾るようになって、いつの間にか花や野草にも詳しくなってきた。かつての家のお隣のおばあちゃんも、山菜のことなど色々と良く教えてくれる。
この場所での暮らしにも幾分慣れてきた6月の雨の日、父から梅の実が送られてきた。
「今年のは大きくて丸い、良い梅に育った。身体に気をつけて」と短い手紙が添えられていた。
初めて自分で梅酒を作ってみようと思った。瓶や氷砂糖などを一式取り揃え、ひとつひとつの実を縁側に座って丁寧に拭く。これから私のキッチンの戸棚にも琥珀色したガラスの瓶が並んでいくのだろうか。
「初めての梅酒を作ります。近く福岡にも遊びにきてください」
私も小さなメッセージを父に送った。
あと何年したら実家から持ってきた庭の挿木は花を咲かせ、実をつけるのだろうか。その日を楽しみに、私はゆっくりとこの場所で暮らしを楽しむだろう。
春の訪れを告げる控えめな白い花たち、その香りが私を抱きしめてくれる日を待ちながら。過ぎゆく時間に枝葉を伸ばし、実を結ぶ様に。
(了)
<本作品のモチーフにしたお話・文化>
「飛梅伝説」「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」菅原道真
*この物語はフィクションです
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