Project 3

日本各地のストーリー創作

海の見える街で私たち

 毎年、母の命日には父と二人で遊覧船に乗って、お墓参りの代わりに海に出て母に手を合わせることにしていた。年頃になってから、父と二人で街に出かけることが少なくなっている環奈は、一年に一度のこの日が、二人でゆっくりと流れる時間を過ごす唯一の機会になっていた。
 環奈は父がどのように思っているのか、分かるようで分からないと感じる。遊覧船のデッキの上に乗り込み、ウミネコがクゥークゥーと鳴く声がする空の下で、海で眠る母のことを思って手を合わせた。瞼を閉じて、無言で手を合わせる父は今、母に何を語りかけているのだろうか。本当はもっとずっと、一緒にいたかったはずだ。父を横目に見ていたら、「お父さん」と不意に声が出た。「ん?」とこちらを向く父に向かって、「好きな人がいなくなるってどんな気持ち?」と、自然と質問していた。
「どんな気持ち、か」と呟く父に、
「うん」と頷く環奈。うーん、と環奈の父は少し悩む仕草を見せてから、
「お父さんは、そうだな。恨んだかな」と言った。
「恨んだ?」意外な答えに、環奈が聞き返すと、
「うん、すごく恨んだ」と父は水面を眺めながら、「ずっと一緒って言ってたのにねえ」と独り言のように呟いた後、「由美ちゃん、会いたいな」と言った。
 由美は母親の名前だ。環奈はなんだか父の本心というか、弱音を初めて聞いた気がする。お父さんも、悲しんだりするのか。そんなの少し考えれば当たり前だけど、忘れていることでもある。
「今でも恨んでる?」恐る恐る聞くと、父は「いいや」と否定した。
「お母さんと出会えなかった人生の方が考えられないから、これで良かったんだと思う」
「そっか」その言葉を聞いて、環奈はちょっと安心した。
「でもねお父さん、環奈のおかげでそう思えたんだ」
「どうして?」
「環奈が頑張って美弥ちゃんと友達になった時、お父さんも頑張らないと、って思った。小さな環奈がこんなに頑張ってるのに、俺がこんなだったらお母さんに怒られるなって」
「そうだったんだ……」環奈は美弥のことを思い浮かべて気持ちが暗くなった。
「あのね、環奈。大丈夫」と、父は美弥の両親にでも聞いていて知ってたのか、
「お父さんもお母さんも沢山喧嘩して、仲直りして仲良くなったから」と肩に手を回した。
 環奈は涙が堪えきれなくなって、下を向いて泣き顔を父に見られないように手の甲で隠した。うん、大丈夫大丈夫、と父は乗せていた手でぽんぽんと肩を二回叩いた。その後は環奈を気遣って、泣いている姿を視界に入れないようにして、ウミネコに餌をやった。
「おーよく食べるな」環奈をそっちのけで間抜けに喜ぶ父に、環奈はお父さんの娘で良かったと思いながら涙を拭う。
「餌、私もあげたい」
「あ、うん。はいどうぞ」と手渡された餌をウミネコに差し出してみると、すぐに食べられた。餌がなくなるまであげ続けて、
「もう全部食べられちゃったよ」と環奈がようやく笑顔を見せると、父も笑った。
 帰り際、父に「美弥ちゃん、環奈が走ってるのに憧れて頑張ろうと思ったんだってな。二人で応援しないとな」と言われた。思えば美弥と出会った時、友達になるのに背中を押してくれたのも父だった。
「お父さん」
「ん?」
「ありがとね。本当にありがとう」
「ああ、うん」
 慣れないことをして恥ずかしかったのか、父は環奈の方を見ずに返事をした。

 環奈は勇気を出して美弥に連絡した。美弥が東京に行く前にもう一度、一緒に走りたかった。美弥からの返事はなかったが、環奈は信じて家を飛び出した。軽くストレッチをした後に、よーいドン、と小さく呟いて駆け出した。何遍も、何遍も走ってきた街の景色は、いつも自分を救ってくれたと環奈は思う。母がいなくなった後の、埋めようのない悲しさも、坂道や海沿いを無心で走っている束の間だけ、考えないでいられた。一人きり、誰かに助けを求めるように必死に走る当時の環奈を、美弥が見つけてくれた。
 サンビーチの近くを走っていると、二人で何度も語り合ったムーンテラスやスカイデッキのある親水公園、そして貫一お宮之像が目に入る。ここで美弥と写真を撮って話題になった。あれ以来、なんだか二人で遊んでてもすぐに写真を撮ってSNSにアップしたり、それで周りからの反応を求めるようなことばかりしていた。もっと普通に話したり、走ったりしていたら、気持ちはすれ違わなかっただろうか。美弥が初めて環奈に声をかけてくれた日のことを思い出す。たった一言で、美弥は塞ぎこんでいた環奈を、明るい場所に連れ出してくれた。
「環奈ー!」と声がして、振り向くと自転車に乗って向かってくる美弥が目に入った。
「美弥!」と叫んで、環奈も走って美弥のいる方へ駆け寄った。
 すぐ近くまで来ると美弥が自転車から降りて、
「実は私、明日が出発なんだ」と環奈に報告した。それから少し涙目になって「でも良かった、行く前に会えて」と言った。
「ごめん私……」と環奈は言って、息を切らしながら、「酷いこと言った。美弥に酷いこと言った。本当にごめんね、もう許してもらえないかもしれない」と泣きじゃくる環奈に、
「ううん、私こそごめん。私もむきになって酷いこと言ってたから。お互いさまだよ」と美弥が片目を擦りながら、もう片方の空いた手で環奈の背中を撫でる。
 ようやく謝ることができて安心して、二人はお互いを慰めるためにそっと抱き合う。体を離した後、顔を見合わせて、
「環奈、もう少し走れる?」と美弥が尋ねると、
「もちろん」と環奈は笑顔で答えた。
 またいつものように並んで走れるのが二人は嬉しくてたまらない。海風を切って走る。美弥の長い髪がなびく。環奈の足の裏がアスファルトを小気味よく叩く音が響く。二人は改めて実感し始める。もうこの街では、一緒にいられない。こうしてすぐに待ち合わせて走ることもない。寂しいけれど、でも大丈夫。たとえ一緒にいなくても、私たちはずっと一緒に走ってる。
「そう思わない?」
「ね、そう思う」
 私たちは最高のペアだ。
 そのまま二人は走り続ける。「ちょっとペース遅いんじゃない?」と、美弥が環奈をけしかけると、
「違うよ、まだまだこれから」と環奈はグッとスピードを上げた。それを見た美弥が、
「行けー環奈ー!」と叫んだ。
「行けー美弥ー!」と環奈が返す。
「頑張れー環奈ー!」「頑張れー美弥ー!」とお互いを鼓舞する声援が響き渡る。汗が噴き出る。はっ、はっ、と呼吸が荒くなる。それでも声援を止めることはない。「行けー!」このままずっと止めることはないと思う。「頑張れー!」離れててもきっと届く。「負けるなー」二人の心が通じている限り、声は届くに違いない。
 二人は走り終えてからも興奮冷めやらぬまま、泣き笑いしながら、そのまま話したいことが山ほどあることを思い出して、砂浜に下りて寄せては返す波のそばで散々語り合った。それでも全然時間が足りないから、東京でも熱海でも、すぐにまた会いに行く約束をして、帰り際に海をバックに二人で写真を撮った。満面の笑みで写る二人の写真はSNSに上げずに、二人だけのものにしておこうと思った。

(了)

<本作品のモチーフにしたお話・文化>
「金色夜叉」尾崎紅葉

*この物語はフィクションです

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日本各地のストーリー創作

プロジェクト参加作家

  • 岩手県 柿沼雅美

    柿沼雅美(かきぬま・まさみ)

    1985年、東京都生まれ神奈川県育ち。
    清泉女子大学文学部日本語日本文学科卒業。大学職員勤務を経て作詞家に。
    JUJU、Snow Man、ジャニーズJr、ミュージカル刀剣乱舞、テニスの王子様Rising Beat、ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会、MORISAKI WIN、亜咲花、三澤紗千香、上月せれな、等の楽曲へ作詞で参加。

    「けっぱれ」

    久しぶりに岩手県で暮らす祖母のもとを訪れることになった悠人。到着したその日の夜、一人の少女と出会ったことで、懐かしい気持ちとともにある不安が湧いてくる。その不安は、祖母と別れるまで悠人を悩ませ続けるが……

  • 静岡県 乘金顕斗

    乘金顕斗(のりかね・けんと)

    小説家。1992年生まれ。兵庫県在住。2017年、公募から「たべるのがおそいvol.3(書肆侃侃房)」に『虫歯になった女』が掲載。2019年に短編集「対岸にいる男」(惑星と口笛ブックス)。2020年、「kaze no tanbun 移動図書館の子供たち(柏書房)」に掌編『ケンちゃん』。2021年、第7回ブックショートアワード大賞受賞。

    「海の見える街で私たち」

    環奈と美弥は、子供の頃から一緒に熱海の街を走って過ごしてきた。お互いを大切に思い合う二人はしかし、貫一お宮之像の前でそのポーズを真似して撮った写真をSNSに投稿したことで、大きくすれ違いはじめる。

  • 福岡県 菅原敏

    菅原敏(すがわら・びん)

    詩人。 2011年、アメリカの出版社PRE/POSTより詩集『裸でベランダ/ウサギと女たち』をリリース。 以降、執筆活動を軸にラジオでの朗読や歌詞提供、欧米やロシアでの海外公演など幅広く詩を表現。近著に『かのひと 超訳世界恋愛詩集』(東京新聞)、燃やすとレモンの香る詩集『果実は空に投げ たくさんの星をつくること』(mitosaya)、『季節を脱いで ふたりは潜る』(雷鳥社)。 東京藝術大学 非常勤講師
    http://sugawarabin.com/

    「琥珀色の瓶」

    幼い頃、両親と過ごした福岡市郊外に家を買った「私」は、亡くなった母が大切に育てていた梅の枝を携えて引っ越しをする。福岡、京都と行き来する梅の木とそれに重なる家族の思い出、そしてこれからの「私」の暮らし。