コラム・ベトナムColumn Vietnam
シネマ・パラダイス (3/3)
Cinema paradiso ~シネマ・パラダイス~
文: Viet Nguyen
映画で繋がる家族
TPDは、毎年12~15クラスを開設していますが、その中で最も受講者が多いのはドキュメンタリーとフィクションのショートフィルムクラスです。2014年にTPDはYOU CAN ACTプログラムを発足させます。これは16歳以上を対象とした演技クラスで、映画や舞台のための基本的な演技のレッスンを行っています。
その同じ年に、TPDは夏休み期間中の小中学生(8~15歳)を対象に映画のワークショップを開くため、小中学校と連携しました。このワークショップはその後、Teen Filmmakersと呼ばれる、10代の若者が楽しく映画制作について学ぶための夏の特別集中ワークショップへと発展していきます。
プログラムや受講生の数が増えるにつれ、TPDはベトナムの映画ファンや映画制作者のコミュニティとして徐々に成長していきます。まず、共に映画制作について学ぶことで生徒同士が仲良くなります。次にYahoo MessengerやFacebookなどでインターネットを介して生徒同士が繋がったことで、皆でコミュニケーションを取り情熱を共有できるようにとTPDの職員がフォーラムを作りました。当然このコミュニティはWe Are Filmmakers、もしくは省略してWAFMと呼ばれています。これまでにFacebook上で繋がっているWAFMのメンバーは1000人近くに達しています。これは間違いなくベトナム最大規模の映画制作者コミュニティです。そして毎年8月になると、Golden Lotus Bud賞を祝うために、コミュニティ全体が一堂に会します。
Golden Lotus Bud授賞式は、その年にWAFMの生徒が制作したショートフィルムの中で傑出した作品を称賛するため、TPDセンターが毎年開催しています。2010年4月10日に第1回目のGolden Lotus Bud授賞式が開催されてからというもの、Golden Lotus Bud賞は若いベトナムの映画制作者にとって最も価値のある賞の1つとなりました。この授賞式は毎年7月か8月に行われ、ベトナム映画の指針策定者、プレス、文化的先導者、芸術界、映画ファンの関心を引きつけ、支援を得る機会となっています。
しかし授賞式の期間以外でもコミュニティの活動は活発です。毎週末、“現実から逃避する”ためにTPDの中に隠れにくる若者グループがいます。彼らは頻繁に会って、一緒に映画鑑賞をしたり、映画について語り合ったり、次のショートフィルム制作の計画を立てたりしています。時には、暑い夏の日にアイスティーを飲んで、ギターを弾きながら歌うためだけに集まることもあります。みんなが様々なバックグラウンドを持っているにも関わらず、まるで、とても大きな家族の兄弟姉妹や親せきのように思えてきます。彼らを繋げているのは、全員の映画への愛情に他なりません。
この7年間、私がTPDに在籍し続けたのもこの愛情のせいです。コースの初日に知り合った友人がいて、今でもお互いのプロジェクトを助け合っています。異なる分野や外国へと移っていった友人もいますが、彼らは今でもTPDファミリーと連絡を取り合い、私たちのプロジェクトを一生懸命に応援してくれます。私たちはWAFMの先輩となり、センターやコミュニティの新メンバーを常に歓迎し、彼らが馴染めるように手助けをしています。
TPDで最初の授業を受講した時から、私は本当に多くの物資や機会を得てきました。幸運なことにフィクションフィルムクラスの卒業制作で監督に指名され、その作品が2010年のGolden Lotus Bud賞を勝ち取りました。その後は、TPDのプロの映画制作者に付いて映画制作を学び、TPD内外の映画プロジェクトに携わることで、将来的なキャリア構築で非常に役立つ知識や技術を身に付けました。
TPDの映画制作クラスで私と同じような恩恵を受けた友人がいます。H4クラスの生徒だったド・クオック・チュンは、その後ハノイの映画学校に行き、多くの賞を受賞するショートフィルムを作りました。映画大学を首席で卒業し、現在はTPDのフィクションフィルムクラスの教師として働いています。H7クラスにいたゴ・ダイ・トランとド・フォン・トランは映画学科のない大学を卒業しましたが、現在はコマーシャル制作会社とショートフィルム制作会社で活躍しています。彼らはWAFMの中でも群を抜いて優秀なメンバーで、ここ数年は後輩を先導すると共に、与えれば与えるほど、与えられる量も多くなるという“ギブ・アンド・テイク”の精神の場となるコミュニティを作っています。
毎日、新しいことに挑戦する
船を作るのは大変ですが、航海するのはもっと大変です。TPDは8年間、数多くの困難や課題を乗り越えてきました。TPD役員の献身、忍耐、強い信念が難題を打破する力となっています。TPDとWAFMの創設者であるブイ・タク・チュエン監督は非常に意識の高い人物です。若い世代の学生に映画制作の基礎を教えるというアイディアはチュエン氏と彼の仲間によって発案され、展開されました。彼は、未来のベトナム映画がより強い力を得るために、多くの財産をTPDに投資しています。チュエン氏は自身のカリスマ性、芸術や教育に関する幅広い知識、人間の発達に関する思慮に富んだ心を活かし、苦難の連続だったTPDの創成期を乗り越えてきました。
しかし、若者が中心となるコミュニティには、若いリーダーが必要です。これは、チュエン氏にはなることができません。若いリーダーには、面倒見がよく、情熱的で、時には少し大胆な気持ちを持っている人物が合っています。このポジションについたのが、We are filmmakersの“兄”的な存在であり、TPDの代表を務めているグエン・ホアン・フォン氏です。フォン氏は元々、普通の映画通でしたが、その後、映画評論家になり、映画図書館の職員、そしてWAFMの若いリーダーとなりました。彼はTPDの職員の中で最も長く働いています。フォン氏以上にTPDやWAFMについて理解している人は他にいません。彼は第1期の映画クラスからここで働いていて、センターで最初の生徒を指導していました。また、当時のフォン氏は新しいプログラムの開発や、既存のプログラムの強化にも携わっていました。
成長は、いつもチャンスと共にやってきます。生徒の数が増え、卒業制作の数が減り、教師陣が安定せず、施設の資産価値が減少するなど、現在のTPDはいくつかの困難に直面しています。センターではスケジュール通り円滑に授業が進められていますが、授業での成果は以前ほど期待できなくなりました。TPDの人気が上昇して生徒数が増えるにつれ、多様性が広がり、更に大きな管理努力が必要となったのです。しかし、職員の数は限られており、彼らは組織の内外で生じた新しい問題に直面しています。これは、TPDが拡大する速度を落とし、成長を深く掘り下げることに注力する時が来たということでしょう。また、予算や職員の拡充についても考えなければいけません。
7年前、映画の大学以外で基礎的な映画制作を学べる場所は1つしかありませんでした。それはTPDセンターです。今では他にも短期間で映画制作を学べる場所が2~3ヵ所ありますが、それでも、最も勧められる機関は相変わらずTPDセンターです。TPDセンターが最初から支援し成功した映画プロジェクトが数多くあります。TPDセンターを卒業した数多くの監督が活躍し、この施設の中で考え出された数多くの作品が賞を受賞しています。監督、役者、脚本家を夢見る全ての若者にとって、学びに行くべき場所はTPDやWe are filmmakersです。今では、年配の人々にもピッタリなクラスをTPDでは用意しています。
TPDやWe are filmmakersプロジェクトは、より多くの人々に映画教育を提供するという外側の目標は達成したと言えるでしょう。しかし、内側の目標については、いまだに成し遂げられていません。それが達成される日まで、私たちは映画を作り続け、カメラを回し続けていくでしょう。
(終わり)
文: Viet Nguyen
シネマ・パラダイス (2/3)
Cinema paradiso ~シネマ・パラダイス~
文: Viet Nguyen
初めての映画クラス、初めてのショートフィルム
H7クラスは、TPDの7期目にあたるショートドキュメンタリークラスで、2009年の9月に始まりました(一番新しいクラスコードはH64です)。2008年から2012年までの間は、TPDの全学生がショートドキュメンタリーを最初に学んでいました。10~15分間のショートドキュメンタリー映画の制作を学ぶ基礎コースです。これは週に1セクションを週末に学ぶ12週間のコースでした。各セクションは3時間で、全て無料です。TPDは学習者に支払いを求めることはありません。センターが教室や教育施設、学習道具(フィルム、クリップ、教科書)、カメラ用品(ハンディカメラ)まで提供します。夢のようなクラスだと言う者もいます。しかし、最初に私たちが学んだのは現実でした。
ドキュメンタリー映画の題材は現実です。TPDに入る前、私はテレビの単純な科学系ドキュメンタリー番組しか見たことがなく、それを面白いと思ったことはありませんでした。しかし授業によって、ドキュメンタリーというジャンルへの見方が変わり、人生の本当の美しさを間近で見ることになります。ドキュメンタリーから学習を始めることは、全ての映画制作者にとって、とても有益なことだと思います。私たちを取り巻く世界をどのように観察し、人生の一場面をどのように捉えるのか、そして更に重要なのは、どのように人々を描写するのかということを教えてくれるからです。
12週間、私たちを指導したグエン・フン・レ監督は、テレビ番組のディレクターやドキュメンタリー映画の制作者として活躍しています。彼女は私たちの現実に対する考え方を、もっと正確に言えば、現実の捉え方を変えました。グエン・フン・レ監督が一方的に講義をするということはほとんどなく、彼女は自分の知識と、現実の人々や実在する生活、現在進行中の問題などを撮影した、とてつもなく豊富な経験を私たちに共有してくれました。授業には特定の課題と教師用に上手にまとめられたプログラムがあり、それに教師自身の経験や助言が加えられます。TPDの教師陣は堅苦しい学者肌ではありません。彼らは全員、ベトナムまたは外国の映画学校で映画に関する教育を受け、TPDに勤務する以前に何本かの映画を撮影している、現役の映画制作者です。そのため、彼らはたくさんの話題や経験を持っています。私たちは、短編や長編のドキュメンタリー映画の鑑賞、宿題用の動画撮影、自分の処女作のためのリサーチや脚本の執筆を通して、ドキュメンタリー映画制作の技巧を学びました。私たちの処女作はコースの卒業制作でもあり、次のTPDのコース、フィクションショートフィルムでの学習を希望する生徒は必ず制作しなければいけませんでした。
TPDでコース初日から教え込まれた映画制作のスタイルは自主制作でした。生徒は、生徒だけで構成されたチームと協力し、各自で自分自身のショートフィルムを制作しなければなりませんでした。そのため、私は自分でリサーチし、自分で脚本を書き、自分でカメラを回し、最終版の編集まで全て自分で行いました。教師は必要な時にガイドや助言者として手を差し伸べ、クラスメートは編集用の下見フィルムやラフカットを見せるたびに様々なコメントを浴びせて感情を揺さぶります。しかし、それはとても楽しい時間であり、私は今までに味わったことのない喜びを感じていました。更に、私は自分の卒業制作として、母の1日を追う短編ドキュメンタリーを制作する中で、家族や母のことをより深く知る機会まで得ることができました。初めて朝から晩まで母の生活に密着して撮影したので、今まで母から聞いたことのない話や、見たことのない母の姿を知ることができました。しかし、授業の一環だったので、私は観察者であり、映画制作者である立場に徹しました。作品の出来は良くも悪くもないという感じでしたが、完成させたことで満足感がありました。このドキュメンタリークラスで学んだ経験が、私にとっては人生を変えるきっかけとなったのです。
クラスメートの中には私と同じような成果を得た生徒もいますが、全員がそうではありませんでした。4~5週間で姿を消した生徒もいました。最終週まで残ったのに、卒業制作を完成させられなかった生徒もいます。他には、撮影した映像から下手なカットを編集しただけで、熱心さの全く見られない作品を提出した生徒もいました。最終的に卒業制作を完成させた生徒は半分以下でした。このような状況は、どんな科目でも普通に起こり得ることですし、ドキュメンタリーを制作するという難しいタスクであれば、更に当然の結果だと思います。TPDにとって、特にWe are filmmakersプロジェクトの最初の数年間は、脱落する生徒がいても可能性を試してみるしかありません。TPDのすばらしさは、心を込めて作品を完成させた生徒には成長する場を与え続けてくれるところです。
(続く)
シネマ・パラダイス (1/3)
Cinema paradiso ~シネマ・パラダイス~
文: Viet Nguyen
それは2009年の秋のことでした。ベトナムの国民経済大学(NEU)のキャンパスでは、どの学生も分厚い教科書を抱え、急いで朝の授業へと向かっていました。ある青年がひざまずき、灰色のコンクリートに覆われた地面の上にある小さな何かをカメラで撮っていることに気が付く学生はほとんどいません。その青年は、とても長い時間カメラを構えて微動だにしなかったので、まるでカメラを持つ銅像のようでした。その“銅像”のような青年が撮っていたのは近くの木から舞い落ちた黄色い葉っぱで、使っていたカメラは、キャノン製“ツーリスト”モデルのコンパクトカメラでした。その不思議な青年は私です。私は、映画クラスで初めての宿題に取り組んでいるところでした。どのように私が映画制作を学び始めたかを振り返る時、これが心に最初に思い浮かぶイメージです。
私の祖国ベトナムにある映画学校の数は7年前とほとんど変わっていません。およそ9000万人の人口に対し、映画やテレビの分野を扱う大学はわずか2校だけです。しかも各校の受け入れ人数は毎年15~20人程度で、大学で映画制作を学べる確率は非常に限られています。もし大学で映画制作を学びたいのであれば、突出した成果と才能を持っている、もしくは両親がアーティストとしての地位を確立している、家族に入学金を支払う経済力があるなどの条件をクリアしていなければいけません。私はどの条件も満たしていませんでした。そのため、私は国内に300校ある経済系の学校の中で人気の大学に入学することにしたので、家族は喜び、友人は祝ってくれましたが、私自身は少し混乱していました。この先、どうやったら映画制作者となる道を進めるのでしょう。
そんな時に耳にしたのが、「We are filmmakers(私たちは映画制作者である)」というプロジェクトでした。
We are filmmakersの起源 ― 無料の映画教育
映画人材開発センター(TPD)は、2002年の8月15日にVietnam Cinema Associationによって設立されました。その設立趣旨は、映画人材に対する支援や開発を目的としたプログラムの計画や運営と、ベトナム映画界の発展を目的とした活動を行うことでした。TPDが掲げる使命には、映画関連の活動を支援するだけでなく、映画制作を通して生活技能が向上するように指導することも含まれます。TPDにはシネマスペースと呼ばれる国内最大規模の図書館があり、一般公開されています。この図書館にはベトナム国内外の映画3000本が所蔵され、更にベトナム語だけでなく外国語で書かれた映画関連の書籍や雑誌もあります。TPDはフォード財団からの支援(2003年~2010年)を受ける他に、ブリティッシュ・カウンシルやゲーテ・インスティトゥート(ドイツ文化センター)、L’espace(ハノイのフランス文化センター)など国内外の文化・学習センターや、USC(南カリフォルニア大学/アメリカ)やロンドンフィルムアカデミー(イギリス)、デンマーク国立映画学校、Fémis(フランス国立映画学校/フランス)などの有名な映画教育機関、更にはMegastar Media(メガスター・メディア)、Galaxy Studio(ギャラクシースタジオ)、パナソニックなどの企業とも協力関係を築いています。
TPDがハノイでWe are filmmakersのデモプロジェクトを立ち上げたのは、2008年のことです。Vietnam Cinema Associationの承認の下、フォード財団から資金援助を受け設立されました。
TPDはWe are filmmakersについて、以下のように説明しています。
「近年、ハンディカメラを持っている人を見ても、全く珍しいと感じなくなりました。メディアは21世紀のコミュニケーション手段となっています。メディアの言語を利用することは、現代人特有の必須技能と言えるでしょう。小学生から大学生までの間に“メディア”に対する理解やアプローチを必要とすることは理にかなっていて重要なことです。これがWe are filmmakers(WAFM)プロジェクトを始めたきっかけです。
We are filmmakersプロジェクトとは何か? 映画に関する知識を共有し、映画制作を共同で行うことによって、生活技能と映画について学ぶコースです。
学生は何を得られるか? 映画と映画制作の技術的な知識を通して、生活技能と映画を理解する方法を取得します。
教えるのは誰か? ブイ・タク・チュエン、ファン・ダン・ディ、グエン・ティ・キム・ハイ、ファン・フェン・トウ、グエン・フン・レ、グエン・フー・ファン、ファム・ティ・ハオ、ブイ・キム・クイなど、著名な映画制作者たちが教鞭をとります」
(参考資料:TPDの紹介 2012年版)
大胆なビジョンと出資者からの惜しみない支援により、当時、ベトナムの映画学校が提供していた映画教育とは相反する性質のプロジェクトをTPDは創り出しました。基礎的かつ実践的、そして生徒志向のプログラムを完全無料で提供したのです。ここで次の疑問が浮かびます。TPDはどのようにして、このプログラムを必要とする人物に、もっと正確に言うと、このプログラムを受ける資質のある人物に教育を提供するのでしょう。
映画人材開発センターの名前が示すように、TPDは常に、映画界の未来を担う可能性を持った若者の声に耳を傾けてきました。We are filmmakersプロジェクトが焦点を当てているのは、10代の若者と高校生でした(後に対象となる世代を広げていきます)。プログラムの受講者として最適な人材を選ぶために、TPDはハノイ中心部の中学や高校を巡る選考ツアーを行っていました。このツアーでは、選考担当者が全校生徒を前に感動的なスピーチをしたり、横断幕を掲げたり、生徒にチラシを配ったりすることが多かったので、選挙運動と間違えられることもありました。スピーチが終わるとすぐに、興味を持った生徒(通常は生徒全員)は、映画制作プログラムへの適性を判断する基本的な筆記試験を校庭や教室で受けさせられました。試験は、生徒の芸術や映画への興味、好み、想像力やストーリーテリングの力などを問う質問で構成されています。しかし、これは選考過程の第1段階にすぎません。
TPDの職員による筆記試験の採点が終わると、高得点を取った生徒が面接のためにセンターに呼ばれます。生徒によっては、これが生まれて初めての面接となります。幸いなことに、TPDの面接はフレンドリーな雰囲気の中、リラックスして受けられるように取り計られているので、生徒にとっては生涯の内で最も楽しめる面接になるはずです。通常、生徒たちは合計人数によって3~4人のグループに分けて座らされます。そして、実際に起こった出来事を説明したり、昔話の形を変えて語り直したり、途中までの物語の続きを好きに話したりといったストーリーテリングの課題を与えられます。生徒は、課題で与えられたストーリーをグループ全員に自分の声で伝えます。要点をまとめた資料や、紙面での説明はありません。古代の人々が焚火を囲んで物語を継承してきたように、口から耳へ直接伝えていきます。この面接は、候補者が団体行動の中でどのように振る舞うか、他者の意見にどのように反応するか、物語に対するアイディアをどのように活かし、受入れるか、ということを観察するのに役立ちます。そして、言うまでもありませんが、話される物語は候補者の創造性やストーリーテリングの能力を推し量る材料となります。
私はTPDでの面接試験を今でも覚えています。5人グループに入れられ、その中で唯一の男子でした。他に20人の候補者がいましたが、私たちは全員、筆記試験を合格して面接に呼ばれていました。私は、そんなに多くの若者がこのプログラムに興味を持っているとは知りませんでした。その時、与えられた課題は、カニはどうして水平に動くのかを1つの物語で説明するというものです。当時の私にとっては、全く予期しない問題でした。しかし、なんとか物語を完結させ、その1週間後に人生で初めての映画クラスに参加することになります。クラスコードはH7でした。
自由経済がもたらした次世代映画
Column by 杉田憲昭(NORIAKI SUGITA/GRAFICA CO., LTD.)
自由経済がもたらした次世代映画
「革命」、「英雄」、「戦争」をキーワードに、長年ドキュメンタリー色が強かったベトナムの映画界だが、前述のドイモイ政策による市場経済導入を期に大きく方向を転換。特に民間映画制作会社の設立が可能となった2002年以降は、興行収入も視野に入れたベトナム人に人気の高いロマンスやコメディーなどのジャンルの娯楽作品が多数制作されるようになった。
ちなみに日本でも知られるベトナム人監督といえば、トラン・アン・ユン(Trần Anh Hùng)が最たるものだろう。「青いパパイヤの香り(Mùi Đu Đủ Xanh)」(1993年)、「シクロ(Xích Lô)」(1995年)、「夏至(Mùa Hè Chiều Thẳng Đứng)」(2000年)などの作品は、叙情に満ちた内容と美しい映像美でカンヌ国際映画祭をはじめとする世界的な賞を多数受賞した。さらに2010年には村上春樹のベストセラー小説である「ノルウェイの森(Rừng Na Uy)」を手掛け、日本でも話題となったのは記憶に新しい。しかし、彼は幼少期にフランスに渡った監督で、拠点を海外に置くいわば外国人監督のようなもの。残念ながらベトナムではその名を聞くことは少ないのが実状だ。
しかし、当然ながら現地にも映画監督がおり、近年は特に若手の映画監督の活躍が目立ってきている。脚本家やプロデューサーとしても人気のチャーリー・グエン(Charlie Nguyễn)監督もその一人だ。彼はベトナム系アメリカ人だが、ベトナム国内向けの作品を数多く制作。人気コメディアンであるタイ・ホア(Thái Hòa)を起用し、同性愛者の恋愛をドタバタコメディーに仕上げた「レット・ホイ・ディサイド(Để Mai Tính 2)」(2014年)は、そのきわどい内容から倫理的な賛否両論を受けながらも興行収入900億ドン(約4億5000万円)を超える大ヒットとなった。
評論家でありながら、アメリカへ留学し映画を学んだファン・ザー・ニャット・リン(Phan Gia Nhật Linh)も注目の人物だ。人気歌手を起用し韓国作品の「怪しい彼女(Miss Granny)」(2014年)をリメイクした「私はあなたのおばあちゃん(Em Là Bà Nội Của Anh)」(2015年)は、公開から約2ヶ月間で興行収入1000億ベトナムドン(約5億円)を突破。その金額はベトナム史上2番目の記録となり、同作品は日本での映画祭にも招待されている。
そのほかにも氷売りの家族の人生を描き、プサン国際映画際で入賞したヒューマンドラマ「ビー、怖くないよ(Bi, Đừng Sợ)」(2010年)のファン・ダン・イー(Phan Đăng Di)監督など、近年のベトナムの映画界では、豊かな才能がそろい始めている。
劇場も充実、映画は庶民の娯楽に
このように、時間をかけて少しずつ育ってきたベトナムの映画界だが、作り手だけでなく映画を見る場所、つまり映画館も年々成長・変化を遂げている。
たとえばベトナムの映画館は、2000年以前はまだ大型の劇場が少なく、上映される映画の本数も多くなかった。ハリウッドなど海外作品の上映は行われていたがその大半が吹き替えで、さらに、ひとりの声優がほぼ全ての登場人物の声を兼任することも当たり前だった。
しかし、現在はベトナム全土で約140館の映画館があり、うち50館近くが外資系の劇場となっている。なかでも「CGV」や「ロッテ・シネマ(Lotte Cinema)」など韓国企業の力が強く、特に2011年にベトナムへ進出した「CGV」は、大型のショッピングモール内などに複数のスクリーンを持つシネコンを次々とオープン。近年の娯楽映画の普及に大きな役割を担っている。しかも、彼らの劇場は4DXやIMAXなど最新の設備を持つ近代的なもので、日本の劇場と比べて遜色がないどころか、それ以上に快適な映画館がほとんどだ。それでいて、チケット料金は1作品10万ベトナムドン(約500円)程度。大学新卒の給与が約350ドルの現地物価から考えて「安くはないが、無理なく見られる」料金設定となっており、観客動員数の増加を後押ししている。
また、上映作品もホラーやコメディー、ロマンスなどの人気ジャンルが大半で、その内訳はハリウッド作品が約80%、ベトナム映画は15〜20%、次いで中国や香港映画と続く。残念ながら日本の映画が上映されることはほとんどないが、アニメ映画は別で「劇場版ドラえもん」は、毎年新作が上映されるほどの常連コンテンツとなっている。それら劇場の努力もあってか業界の収入は好調で、2013年度のベトナムの映画興行収入は約5700万ドル、2016年には1億ドルを超えると予想されている。
このように、ベトナムの映画産業はいまだ発展途上ではあるが、今後に大きな伸び代を持っているといえる。過去、映画会社が国営に限定されていた頃は、政府による宣伝を目的に制作していたため、観客の嗜好を重視することはなかったが、2015年に「ベトナム映画制作・普及協会(Hiệp Hội Phát Hành Và Phổ Biến Phim Việt Nam)」が発足。大手映画会社であるギャラクシー(Galaxy)社ほか、約50社のメンバーが顔を揃え、興行も視野に入れた良質の作品の制作と、ベトナム映画の国内外への普及を目指している。
ドキュメンタリーの枠を超え、ようやく様々なジャンルが出てきたベトナムの映画界。いまだ黎明期ではあるが、現在は年に約160作品が新たに制作されており、その門戸はかなり広がってきている。若手監督により生み出させるベトナム発の良質の作品、それらがベトナムだけでなく、世界中で見られるようになる日も、そう遠い話ではないだろう。
Column by 杉田憲昭(NORIAKI SUGITA/GRAFICA CO., LTD.)
【トレーラー一覧】
- 「北緯17の昼夜」 ※トレーラーではありません
- 「青いパパイヤの香り」
- 「シクロ」※トレーラーではありません
- 「夏至」
- 「レット・ホイ・ディサイド」
- 「私はあなたのおばあちゃん」
- 「怪しい彼女」
- 「ビー、怖くないよ」
経済発展に湧く新興国ベトナム
Column by 杉田憲昭(NORIAKI SUGITA/GRAFICA CO., LTD.)
経済発展に湧く新興国ベトナム
近年、日本のテレビや雑誌などで、ベトナム(Việt Nam)の名前を目にする機会が多い。実際に訪れたことがなくても、三角形の編み笠ノンラー(Nón Lá)をかぶり、民族衣装であるアオザイ(Áo Dài)をなびかせる女性のイメージを一度ならず見たことがある人は、きっと多いことだろう。また、国民食である米麺フォー(Phở)も、インスタント麺としてスーパーやコンビニエンスストアの店頭に並ぶようになった。それらの影響もあってか、日本におけるベトナムの認知度は次第に高まっており、2003年当時に年間30万人程度だったベトナムへの日本人渡航者数は、今や70万人に迫る勢いだ。観光客の増加とともに日本での露出も増え、2013年には日越外交関係樹立40周年を迎えるなど、日本とベトナムの関係はますます近く、深くなってきている。
そんなベトナムは日本から直行便のフライトで約6時間、南北に細長い国土を持つ東南アジアの一国だ。全長はちょうど日本の本州の全長と同じくらい。首都ハノイ(Hà Nội)がある北部、最大の経済都市ホーチミン市(Thành phố Hồ Chí Minh)がある南部、そしてダナン(Đà Nẵng)を筆頭に近年リゾート開発が盛んな中部と、大きく3つのエリアから成っている。社会主義国家ではあるが、1986年に採択されたドイモイ(Đổi Mới)政策により開放的な市場経済路線に転向。フランスの植民地であったインドシナ地域の中でいち早く経済発展を進め、ハノイやホーチミン市などの都市部には、高層ビルが立ち並ぶ近代的な街並みが広がっている。また、近年は他の東南アジア諸国同様、「チャイナプラス1」の国として日本のほか世界各国からの企業進出が加速しており、外資による大型のシネマコンプレックスも誕生。他業界と同じく、映画界も大きな成長を見せている。
戦いの歴史を刻むドキュメンタリーの雄
そもそもベトナムの映画史は、19世紀末から20世紀半ばまで続く、フランス植民地時代に始まったといわれている。1920年代にベトナム現地初の映画会社が誕生し、最後の王朝であるグエン(Nguyễn)朝の儀式や式典を描いた作品など、いくつかのドキュメンタリーが作られた。とはいえ、当時はまだ産業と呼べるほどの規模ではなかった。さらに、この頃は第二次世界大戦(1939年〜)や抗仏運動であるインドシナ戦争(1946年〜)など激動の時代でもあり、以降、映画は人々を鼓舞するプロパガンダ的な性格を強く帯びていくこととなる。
ベトナムの映画界で、大きなターニングポイントと言われているのが、1953年だ。ベトナム民主共和国(北ベトナム/Việt Nam Dân Chủ Cộng Hòa)の初代国家主席であるホー・チ・ミン(Hồ Chí Minh)主席の指示により、映画の制作を行う本格的な国営映画会社が作られたのだ。制作される映画はこちらもドキュメンタリーが中心で、政策のためのプロパガンダや、人民による革命や闘争などをテーマとした映画が幾つも制作された。国の威信をかけて作られる作品はどれも力の入ったものが多く、自由や南北統一を求める人民の姿を描いたハイ・ニン(Hải Ninh)監督の「北緯17の昼夜(Vĩ Tuyến 17 Ngày và Đêm)」(1972年)ほか、後の世でも高い評価を受ける作品が続々と生み出された。そのため、当時のベトナムはドキュメンタリーの分野において、他国と比べ一歩抜きんでた存在とされていたようだ。
Column by 杉田憲昭(NORIAKI SUGITA/GRAFICA CO., LTD.)