「最近オフの時間はどうしてる?」私が彼女に聞くと
「実は先週からオンラインでピラティスのレッスン始めちゃった。なまった体に結構効くよ」
「いつの間に! 私も何かやらないと……」
「後は相変わらず物件サイトをパトロールして、引っ越し先を探してるとこ」
「あ、私も。ネットで探してるとあっという間に一日が終わっちゃうよね」
「ただでさえ仕事でPCと睨めっこなのに。でも私たち、もう高い家賃で会社の近くに住む必要もないし」
すでに同僚たちの何人かは鎌倉や逗子方面の海沿いに引っ越したり、長野の山あいに家を建てたりと、自然に近い暮らしを楽しんでいるようだった。私も入社10年目。ささやかだが多少の貯金もあるし、どこかここではない街へ住んでみようかという気持ちが最近湧いてきたのだった。
紙とペンを用意して、候補となる街のリストを書き出す。だが、母が亡くなる前に残した「福岡に戻りたかった」という言葉と、おぼろげに覚えている自分の幼少期の記憶が重なって、結局リストにはふたつ目以降の街が記されることはなかった。
私はかつて暮らした福岡市郊外の街の空き家バンクなどに登録して、家を探しはじめた。思ったよりも賃貸は少なく探しあぐねていたが、中古の古い家ならば私にも手の届く金額の物件がちらほらと見つかり、思い切って購入も視野に入れることにした。偶然にも私たち家族が以前暮らした家の近くに物件を見つけて、早速連絡を取って次の週末に内覧の予約を入れてもらったのだった。
「この物件、募集開始したばかりなんですけど掘り出し物ですよ。値段の割にそこまで傷んでいないので。いい工務店さんも紹介できます」
不動産屋の担当さんは私よりも少し若い男性で、この街が地元だという。
「最近この地域は若い移住者の方もちらほら増えてるんです」
土間部分はだいぶひび割れ、壁面や水回りも多少改修が必要だったが、開け放った窓からの景色はどこか懐かしく、柔らかな日差しの中で遠い記憶がかすかに重なる。
「いいですね、この家」
そこからは自分でも驚くほど、とんとん拍子にことは進んでいった。
◉◉◉
引っ越しの報告と母のお墓参りも兼ねて、3年ぶりに訪れた実家。庭の梅は綺麗に咲いていた。父が自分で手入れをしているんだろうか。枝は丁寧に剪定されて軒下にまとめられていた。久しぶりに会った父は白髪も増えて、少し体も小さくなったように感じる。コロナ禍でたったひとり、ここでどんな暮らしをしていたんだろう。
福岡に家を買って引っ越すことを父に告げたが、私が予想したよりも驚いていないようだった。
「……母さんもずっと戻りたがっていたからな」
母がそのことを父に話していたことが、私には意外だった。どこか遠慮して、伝えていないのだろうと思っていたから。
「俺が定年になったら福岡にまた引っ越そうか、なんて話をよくしていたんだよ。ひとりで庭の掃除なんかしてると、最近よく思い出す。俺は毎日仕事が遅かったけど、晩酌にもよく付き合ってくれて。まあいつも最後はお前の話をしてたよ」
「私の話? どんなこと話してたの?」
「まあ、いろいろとな。学校のこと、友達のこと、いま何に興味があって、将来どんな仕事をしたいとか。俺は土日も仕事だったし、直接話を聞けなかったから母さんに色々聞いてたんだよ」
「そんなこと話してたの?」
「ああ、どっちかというと俺に似たタイプだから、母さんはお前がきっと仕事人間になるんじゃないかって少し心配してたよ」
「私、お父さんに似てるのかな」
「どうだろう。俺からみたら、やっぱり母さんにも似てるよ。そりゃ、娘だもんな」
私の知らなかった父と母の時間がそこにはあった。そして、大人になって父とこんな風に話せるとは思っていなかった。
私の知らない時間に、ふたりで私のことを考えていてくれたこと。それを知って嬉しかった。でもどんな顔をして父を見ればいいのか良いのか分からない。
庭先を眺めていると、父が
「小学校に上がる前、太宰府へお参りに行ったこと、覚えてるか?」と尋ねてきた。
参道の先に、大きな梅の木が満開に咲いていたことを、おぼろげに覚えていた。
太宰府の神木「飛梅」。時の右大臣・菅原道真公が大宰府へ赴く際、京都五条にある紅梅殿の梅に別れを惜しんで
「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」
と和歌を詠んだところ、道真を慕って一夜にして太宰府に飛んできたと伝えられている。
「母さんはこの飛梅伝説のエピソードをえらく気に入って。福岡の暮らしを忘れたくないからと、京都に戻るときに梅の枝を持ち帰ってこの家の庭に植えたんだよ」
「太宰府のこと、少しだけ覚えてるよ。参道を歩きながら3人でお饅頭みたいのを食べたよね」
「ああ、あれは梅ヶ枝餅だよ。梅の味がしないのにそんな名前おかしいって言い出して。薄皮の餅と、甘さ控えめなあんこ。あのシンプルさがいいのに、お前は中に梅干しを入れようって」
「なにそれ、全然覚えてない」
私はサンダルで庭に出て、剪定された束から数本の枝を抜き出して父に言った。
「これ何本かもらっていくね。福岡の庭でも花が咲くかもしれない」
「もともとは福岡から来た梅の木だ。うまく根付くといいな」
「うん」
私は母の墓前で引っ越しの報告を済ませ、京都を後にした。